ポポラス認定 心理カウンセラーあゆみ

Story
悩みを克服したカウンセラーの道のり

Story
悩みを克服したカウンセラーの道のり


ホームページをご覧くださり、ありがとうございます。

ポポラス認定カウンセラーのあゆみです。

「カウンセリングを受けよう」そう決断するまで、きっとたくさん悩まれたことと思います。


「信用できる人なのかな?」「私の話を分かってくれる人なのかな?」と、申し込みボタンを押すその瞬間まで、不安でいっぱいですよね。

私自身、過去に「いじめ」「産後うつ」を経験し、人前に立つことや自分をさらけ出すことに強い不安と緊張を感じてきました。

だからこそ、初対面でも極力緊張せずリラックスしていただけるように、安心できる雰囲気づくりを何よりも大切にしています。

クライアント様や友人からはよく、「 親身になって聞いてくれるので話しやすい」「穏やかな笑顔でホッとする」「誠実で一生懸命だから信頼できる」といった嬉しいお言葉をいただきます。

カウンセリングは、カウンセラーとの相性がとても大切です。

私がこれまでどんな風に生きてきて、どのような生きづらさを抱え、どうやって克服してきたのか。そのすべてをまとめたプロフィールです。

どうぞ、お時間をつくってご覧ください。

目次

プロフィール

怒りに怯えた幼少期 – 機能不全家族という連鎖 –

私は、岐阜県の昔ながらの古く大きなお家で、父方の祖父、祖母、父、母、兄の6人で暮らしていました。

両親は共働きで、私と3歳上の兄の面倒は祖父母が見てくれていました。祖父も祖母も優しく私に接してくれ、家族で遊びに行ったり、進路も自由に決めさせてもらえ、恵まれた家庭だったと思います。

そんなごく普通の家庭で育った私ですが、実は「機能不全家族」であり、それは世代を通して悲しい連鎖を引き起こしていたことに気づかされました。

祖父は、よく感情を爆発させる人でした。
私と兄に怒ることはあまりありませんでしたが、父とはよく怒鳴りあいの喧嘩をしていたことを覚えています。

足が悪く杖を使っていた祖父は、思い通りにいかないことがあると、父や祖母に対して怒りを向けて杖を振り下ろしていた記憶があります。

さっきまで穏やかだった祖父が、急に怒鳴り声になり、杖で物を叩く。私には優しいのに、急に態度が変わる祖父の姿や杖で叩く音は、当時の私にとってとても怖いものでした。

でも幼い私にはどうすることもできず、じっと見ていることしかできませんでした。

父も気が短く、すぐにカッとなり「勝手にしろ」「だったらお前(祖父)がやれ」と、祖父と衝突する場面がよくありました。

コミュニケーションをとることはなく、お互い意見を主張するだけで、怒りが収まらない2人は、祖母や母に八つ当たりしていました。


その場の不穏な空気を敏感に察知してしまう私は、家庭の中で何かを発言することもできず

「今はいい子にしないと私も怒られるんじゃないか?」「今、何かを言うと怒られるかもしれない」と、いつも恐怖と不安を感じていました。

今こうして振り返ると、幼少期の家庭環境の中で他人の顔色を伺うクセが身についたのだと思います。

家族を楽しませようと、おちゃらけたり、おふざけしたり、いい子でいようとしたり。みんなの笑った顔が見たいというより、「怒っていないかの確認」をするために明るく振る舞っていたように思います。

そして、そうした家庭環境が「トラウマ」となり、未来の家族までも傷つけることになるとは…思いもしませんでした。

自分よりも他人を優先し愛を貰うようになった原点 – 「いい子」を演じた幼少期 –

幼い頃の兄はとても優しく、よく私の手をひいて遊んでくれました。私はそんな兄が大好きでした。

兄といつも一緒にいたせいか、私はどちらかと言うとお淑やかな女の子ではなく運動会では裸足で走ったり、木に登ったり、川に入って魚を取るような、やんちゃでお転婆な子でした。

兄は優しくて妹思いで、水泳や絵も表彰されるレベル。身体が弱く体調をよく崩していたこともあり、家族はそんな兄に手厚く接していた記憶があります。

兄には、新しい服や玩具、私には服やおもちゃも兄のお下がりばかり。

女の子のお家に遊びに行くと、女の子の可愛い玩具やキラキラの可愛い服を目にしました。

本当は私も欲しかったけど、迷惑かけると思って言えませんでした。

今思うと、女の子っぽいものが欲しかったけれど、忙しそうにしている母に気を遣い、言えなかったのかもしれません。

次第に「何で私はお兄ちゃんのお古ばかりなんだろう」と不満を抱くようになりました。

保育園や小学校に上がる時には、持ち物に書かれた兄の名前の上に、自分の名前が上書きされて持たされました。

その度に「また、お兄ちゃんの使ったもの」「周りの子は新品なのに自分だけお古」

少しずつ「私は愛されていないのかな」と思うようになりました。

大人になった私には「愛されたい」「誰かの特別でいたい」と過剰に思ってしまうところや

それを得るために自分を犠牲にして他人を優先してしまう癖がありました。

愛情を得るために他人を優先する癖は、幼い私が自分を守るために決めたルールだったのだと今の私には理解ができますが

もちろん当時の私には分かるわけがなく、その後も着々と自分の心には蓋をし、他人を優先し続けることになります。

感情任せに怒る父からの言葉 – 心に刻まれた恐怖 –

私が怒りやすくなったのは、父親や祖父の影響もあったと思っています。

普段は子煩悩で、休みの時は遊んでくれたり、周りの人とも気さくに話す父ですが、お酒を飲んだ時や機嫌が悪い時は、すぐにカーッとなり感情任せに怒鳴りました。

こちらの話を全く聞いてくれず、反抗しようものなら「ここは俺の家だ」「嫌なら出て行け」と、子どもに何も言わせないように、決定権は自分にあるのだと思い知らせるかのように、この言葉を言い相手に謝らせました。

幼い頃、夜寝るときに父の置物をうっかり壊してしまったことがありました。「しまった、怒られる」と思い、父に言いませんでした。

ところが、壊れた置物に気づいた父が私を問い詰めてきました。

私は怖くて、咄嗟に「壊していない」と嘘をつきました。

父は、私の嘘を見抜いていて「嘘をつく奴は、家の子じゃない。出て行け」そう激怒して、大泣きしている私を抱きかかえ、玄関の外に追い出しました。

鍵も閉められ、真っ暗の外はとても怖く、泣き叫びながら何度も「ごめんなさい」と謝りました。

その後どうやって家の中に入れさせてもらったのか覚えていませんが、「嘘は絶対ついてはいけない、怒られると捨てられてしまうと、私の心に深く刻まれました。

テレビを見る順番さえも、父の言うことをきかないと怒鳴られ「出ていけ」と言われました。

そのたびに「私はいらない子なんだ」「今死んでも、お父さんは何も思わないだろう」と思い、川へ飛び込もうと思ったこともありました。


怒ってばかりの父とは違い、母は温厚な人でした。

母はとにかく忙しそうで、朝は家事をしてすぐに仕事へ行き、帰宅してからは1人で6人分の家事を捌いていました。

多忙だった母とは、親子のスキンシップの記憶は殆どなく、今思うと私を見てくれなくてとても寂しかった気がします。


小学低学年の頃、母に「起きた」と挨拶をし、母が来て抱っこしてリビングまで運んでくれることが、私の中の最大の甘えでした。

忙しい母がその時だけは私を受け入れてくれる気がして、嬉しかった記憶があります。

両親はよく私に「川から拾ってきた」と冗談っぽく言っていました。

親の何気ない冗談も何度も聞かされると、怒られた時、悲しい出来事があったときに、そのことが思い出され事実のように思えてくるんですよね。

「私は拾ってきた子だから何度も怒るの?」

「拾ってきた子だから私を見てくれないのかな?」

「拾ってきた子だから愛されないんだ」

と、愛されていることに不信感を持ってしまい、するとだんだん「私は、ここに居ていいのかな」と、自分の存在自体にも不信感が出てきてしまうのです。

独りの寂しさから、承認欲求が強くなった小学生時代 – 「いい子」を演じることでしか存在価値を見出せなかった –

小学生になり、学校から帰ってくると、家の中には誰もいませんでした。

祖父や祖母は畑へ行き、兄はクラブ活動。私の「ただいまー」の声は、だだっ広い家に響き渡り、誰からも「おかえり」の返事はありませんでした。


「独りなんだ…」そう思うと、途端に寂しくなり、私は近所の友達のお家に遊びに行ってばかりでした。

「どうして私の家は、お母さんが仕事しているんだろう?」

友達のお家には、その子のお母さんがいて、学校から帰ったら色んな話ができる。学校のことを気にかけてもらえる、私はそれがとても羨ましかったんですね。


子ども時代に味わった寂しさから、「誰かに必要とされたい」と強く思うようになっていきました。

小学生の頃、私はいわゆる「いい子」でした。学校では隣の席の子が寝ていたら起こしてあげたり、掃除をしっかりやったり、先生からは「しっかりしている」「面倒見がいい」と評価されました。

仕事へ行く母へお弁当を作ったこともあります。母が帰ってきて「会社の人に良い娘さんねと褒められたよ」と言い、私を褒めてくれました。

母の日には手紙を書いてプレゼントを渡したり「お母さん、好きなものを買ってね」と、私のお小遣いを渡したこともあります。

「私はこんなにも良い子でしょ?」

「私は必要でしょ?」


「私の頑張りをもっと褒めて!」


「私をもっと見て!私を頼って!」


そう心の中で叫んでいたのかもしれません。

誰かに必要とされたかったんです。それが私の生きる価値だったから。

それなのに母は、私ではなく、兄ばかり気にかけていました。

兄は頭も良く、色々なことを頑張っていましたから、いつも兄ばかり褒めていたように思います。

兄妹喧嘩をしても、兄にプロレス技をかけられて痛くて泣いていても、適当な相槌だけでこちらを見ずに料理をしていたり。

母の日にあげたサボテンも、気づいたら庭の隅に捨てられていたり。兄と自分を比べて愛情の差を感じて本当に寂しかったです。

「私はお母さんのためにやっているのに、どうしてお兄ちゃんばかり可愛がるの?」家族といるのに、誰も私を見てくれている気がしませんでした。

私という存在を消したくなった – いじめによるトラウマ –

家庭以外でも傷となる出来事がありました。それが学校での、いじめです。

はじまりは小学3年生の夏休み。家族で海へ行き、そこで日焼け大会が開催されており、試しに参加しました。

炎天下の中ずっと座っているのはとても辛かったけれど、見事3位に輝きました。それが私はとても嬉しかった思い出です。

ですが、夏休みが終わり2学期が始まると、日焼けしている私を見たクラスの男の子から「茶色」「黒」と肌をバカにされるようになりました。

朝の英語の授業で、ブラウンと先生が言うと、私の方を見て男の子たちが「ブラウン」「ブラウン」と叫びました。他の子も笑ったりしていて、とても恥ずかしく、逃げたい衝動にかられました。

「これは日焼けなの!」「やめて!」と反抗したいのに声が出ず、大きな声で揶揄われ、バカにされながらも、ただ黙って耐えることしかできませんでした。

そのことを親に言うと「そんなことはよくある」「気にするな」と、誰も私の悲しみを分かってくれなかったんです。

こんなに恥ずかしく苦しい思いをしているのに、世界に私の気持ちを分かってくれる人は誰もいないと感じました。

私はお風呂場で泣きながら、「白くなれ、白くなれ」と焼けた肌をスポンジで力いっぱい擦り、肌が赤くなっても擦りました。

嬉しかった思い出が、地獄の生活に変わってしまったんです。この時の悲しみはいつまでも忘れることが出来ません。

大人になった今も、このトラウマは私の心の傷となり

「誰かに見られているかも」

「笑われるんじゃないか?」

「バカにされているんじゃないか?」

と、いつも不安で、常に人の目を気にするようになっていました。

私はこれまで、何度もいじめにあいました。

  • 小学6年のとき、友達を庇ったことで親友や幼馴染からいじめにあう

  • 高校1年のとき、中学から一緒だった子から仲間外れにされる

  • 社会人になってからも職場の先輩から、仕事放棄、陰口を言われる


信じられないことに、先生からもひどい仕打ちを受けたこともあります。

中学生のとき、美術の先生から描いた絵をクラスのみんなの前で破られたり、英語の先生からは身に覚えがないことを「あなたのせいで○○さんが泣いている」と学年の前で責められたこともありました。

後から、勘違いだったと謝られましたが、今も鮮明に覚えているくらい傷つきました。

友達からの無視、悪口、ヒソヒソ話、あざ笑っている姿、見下した視線。

みんながいる前で先生から責められ、友達から拒絶され、私の居場所がなくなってしまい、こんな私は消えてしまいたい、どこか遠くへ逃げ出したいと思いました。

親に伝えても結局「よくあること」ですまされる。また、いじめられていることは、弱い自分を曝け出しているようにも思えて誰にも言えず平気なふりをするようになっていきました。

周りの人から見下されないように、弱い自分には蓋をし、強く見せ、なんともないフリをすることを覚えていきました。

大人になった私は、人に弱さを見せたり、甘えることができませんでした。

誰かが話していると「私のことかな?」と人の目を過剰に気にしたり、グループの輪の中に入ることが怖かったり。

「ちゃんと話さないと笑われる」

「できる自分を見せないと馬鹿にされる」

「失礼なこと言ったら嫌われる」


このような謎の恐怖心は未だに残っていて、対人恐怖や対人緊張は、いじめによるトラウマがひとつの要因だと思います。

認められたいが加速する – 満たされない心の叫び –

こうして振り返ると、私の人生は「寂しい、孤独、ツラく怖い出来事」がギュっと詰まっていますね。

だけど、それでも私は頑張っていました。楽しかったこともあります。

中学、高校時代では厳しい部活(ソフトテニス)に入り、先輩の厳しい指導にも絶えつつ上手くなりたくて必死に練習しました。

時には仲間とケンカをしたり、一緒に笑い合った時間はかけがえのない思い出です。

自分が一生懸命に頑張る姿や、仲間(後輩)への気配りを評価され部長を任されました。先生からの評価がとても嬉しく思いました。

小学校の頃から、私の周りには絵を描くことが好きな子が多く、私もアニメや漫画にハマりました。

中学に入り、自分で漫画を描いている子に出会い、より漫画の世界に興味を持ち始めました(いわゆるオタクの世界です)。

友達とコスプレをしたり、素晴らしいイラストを見ていつも心が踊っていました。

「私もいつか人の心を動かせるイラストを描いてみたい」

「私がつらいとき元気をもらえたから、私もみんなが元気になれる漫画を描いてみたい」

そんな風に思うこともありました。

高校で進路を決める際、地元から遠い専門学校を選びました。漫画やイラストを描けるようになりたいと思ったからですが、一番は親と離れたかったからです。

当時の私は、父親と一緒にいることが耐えられなくなっていました。

父が浮気をしていたことを知ってしまったからです。

父が私に話しかけてきても「お母さんを裏切ったくせに」と父の浮気が頭に浮かび、その度に無視をしました。

私たちのお世話をしてくれているお母さんを裏切った男、お母さんを泣かせる男、苦しめる男。父のことが許せませんでした。

私は、父を敵だと認識し、いつも攻撃していました。父から何を言われても反発し、そのたびに怒鳴りあいの喧嘩になり「出ていけ」と言われました。

本当は私にも謝ってほしかった。

家族をめちゃくちゃにしたこと、母を傷つけたことを謝って欲しかったけれど

そんな気持ちさえ素直に父に言えなかった。父も私の気持ちを分かろうとしてくれなかった。

だから早くこの家から出たいと思い、遠くの専門学校を選びました。


今思うと、幼少期の頃から家族の会話が極端に少なかったと思います。言い合いになると、いつも「出て行け」と言われ、話が終わっていた気がします。

会話のキャッチボールがなかったのです。


父は子ども達の意見を全く聞いてくれず、相手を言い負かして終わりたかったのだと思います。

大人になってから、私自身も相手の話を聞けず、相手の意見を受け入れられなくて、私も父と同じように、子どもには「出て行け」夫には「離婚だ」と言い、話を終わらせていました。

「あなたの意見が正しい」そう言わせたかったのだと、今となってはよく分かります。


あの頃の私も、父も、人に弱さを見せること、ありのままの自分を受け入れてもらえないことが怖かったのだと思います。

アダルトチルドレンの特徴が役立った社会人時代 – 歪んだ自己肯定感 –

専門学校を卒業後、私は営業の会社や営業事務の仕事に就きました。社会人になって、色んな世代の人達と出会い沢山の刺激をもらいました。

アダルトチルドレンの特徴である

  • 人から認めてもらいたい気持ちが強い
  • 人の役に立ちたいと過剰に思う
  • 人の目や評価を気にする
  • 必要以上に頑張りすぎてしまう
  • 周りに気を遣い過ぎる

これらのお陰で、周りからの信頼を得たり、褒められたり、仕事を任されたりと仕事で良い評価を得ることもありました。


  • 期待されるから頑張る
  • 誰かに負けたくないからもっと頑張る
  • 頑張ってるから評価される
  • 他人をもお世話をし、信頼を得る

このように仕事面ではプラスに働くことが多かったので、自分の心の問題には全く気づかず、どんどん強固なものにしていきました。

大人になっても本音で話せる人ができず。過去のいじめから

「人は、どうせ離れていく」

「人は信用すると裏切る」

「裏では悪口を言っている」


そう思い込み、人を信じることができなくなっていました。


褒めてもらっても「嘘でしょ」「お世辞でしょ」と、相手の言葉を受け取れませんでした。

裏切られるのが怖いから、相手の気持ちも受けとれず深く付き合うこともしませんでした。

でも、人と話すのは好きなんです。人と関わりたいのに近づけない…そのジレンマに苦しみました。

思いがけない妊娠 – 夫婦関係への不安 –

私は以前から生理不順だったため、生理がくるように病院から薬をもらっていました。生理不順だから子供は授かりにくいかも…と思っていたのですが、27歳の時に妊娠が発覚しました。

突然、病院の先生から妊娠を告げられた時、気づいたら私は「どうしたら堕ろせますか?」と聞いていました。

私の頭の中は、妊娠したことを嬉しいと思えず「しまった、夫が浮気するかも」と、瞬時に不安になり、恐怖でパニックになっていました。


病院から家までの帰り道、電車の中で人目も憚らず泣きながら帰ったことを覚えています。

「妊娠したら夫婦生活ができない=浮気される」と思っていました。

私は、自分の存在を「都合のいい女」だと思っていたのです。

夫はとても誠実で優しく、人からの信頼も厚い人なのですが、過去に一度だけ裏切られたことがあり、そのことから夫を信用できなくなっていました。

だから、夫に妊娠したことを言うのが怖かったのです。


「ため息をつかれるんじゃないか?」

「また裏切られるんじゃないか」

と不安で仕方がなかったです。


でも、勇気を出して伝えると、とても喜んでくれました。内心ほっとして「妊娠しても良いんだ」と思えました。

妊娠中は体調を崩したり不安になることも多かったのですが、生まれてくる子のために何とか乗り越えていきました。

ですが、夫との間で負った心の傷が癒えていなかった私は、その後も不安を感じる場面が多く

夫婦間で生じる不安が、子育てにも大きく影響していきます。

産後うつ – 母親としての苦悩 –

出産し、入院中の私は「夫は会いにくるだろうか?」といつも心配でした。

「また裏切られたらどうしよう」

「こんな体型で魅力的じゃない私には、会いに来ないかも」


はじめての出産と育児指導の不安よりも、夫に対しての不安な気持ちを抱くことの方が強くありました。

「夫に浮気をされないように」私はより一層、家事も子育ても必死になりました

育児書を読み、赤ちゃんの睡眠時間を把握したり、母乳が出にくい体質でしたが、栄養があるから…と母乳育児に拘りました。

「この子は長男だからしっかり育てないと」

「母親だからちゃんとしないと」

と、自分の心を縛り、鞭を打ち、子育てをしました。


子育てを頑張る根底には、夫に必要な人間だと思って欲しい気持ちと、ちゃんとしなければ、見捨てられるかも…という不安があったと思います。

しかし、育児は思い通りにいきませんでした。


息子は全く寝ない子で、ベットに置くと背中スイッチが発動し、すぐに起きてしまうのです。泣いては抱っこの繰り返し…それが2時間以上続き、抱っこしっぱなしでした。

咥え方が下手なのか、母乳を上手に飲むことができず、なかなか体重が増えませんでした。

思うように体重が増えないことに焦り「母乳が足りないからだ」と思った私は、乳頭が切れ血が出ても、痛いのを我慢して泣きながら飲ませていました。

それでも体重は増えず、どんなに頑張っても上手くいかない子育てに苛立ち、毎日小さなわが子に怒り、怒ってしまったことを泣きながら後悔していました。

ある時、保健所の人から電話がかかってきました。以前、訪問に来た人が、暗い顔の私を気に留めてくれていたようで

「以前、訪問したとき、お母さんの目がとても辛そうだったけど、大丈夫?」と、心配して電話を掛けてくれたのです。

気にかけてもらえたことがとても嬉しく、こんな私なんかを気にかけてくれる人がいるのだ…と思いました。

嬉しい気持ちと同時に「迷惑をかけてしまった」「恥ずかしい」という気持ちが出てきて

助けて欲しいと言いたいのに「大丈夫です」と答えていました。

「子育てが苦しいです」

「母乳育児がツラいです」


「 一人では無理です、 私を助けてください」

そう吐き出したいのに声にならない。頼りたいのに 頼れない。

本当の気持ちを言えず、子どもを抱っこしたまま「大丈夫です」と、バレないよう顔を逸らし涙を流していました。

夜泣きもあり、いつも寝不足で、子育てが地獄の日々に思えました。

母に相談しても「そんな時期だから」と言われ、夫は仕事でいつも帰りは遅く、ワンオペ状態。

「もしかすると、仕事じゃなくて遊んでいるのかもしれない」そんな妄想まで出てきて、息子を抱っこしながら夫の帰りをベランダで待っていました。

「どうして私ばかり苦しいのだろう」
こんな地獄の日々が続くなら、死んでラクになった方がいいのかもしれない…


そう思い、住んでいるマンション(9階)から息子と飛び降りようと思いました。

ベランダに出て下を見る。息子も一緒に死ねるように、ちゃんと抱っこしようと思ったそのとき
ふと大きくなった息子のランドセルを背負った姿が思い浮かんだんです。

「この子のランドセルは何色なのかな?」「何色でも素敵だろうな」と、息子がランドセルを背負いながら笑ってる姿が脳裏に浮かびました。

「この子の未来を奪っていいのか?」そう思った瞬間、息子の命をたとうと思ってしまったことに酷く後悔しました。


ですが、このとき、私はもう限界だったのです。

育児書通りやっているのにうまくいかない、何がいいのか分からない、頑張っているのに上手くいかない…

地獄の日々から早く抜け出したかった、命を投げ出したいと思うほど苦しかったのです。

良い母親になりたいのに、なれないジレンマ – 理想と現実の狭間で –

他人と比較してしまうことや、完璧を求めてしまう傾向が強かった私は、近所の子どもと息子を比べて、いつも劣等感を抱いていました。

「他の子に負けないように」「立派なママと思われたい」と思ってしまうのです。

だから、沢山の育児本や自己啓発本を読み、子育てのやり方や考え方を必死に学びました。子どものために、毎日公園へ行き、手作り料理を食べさせました。

子どもが大きくなるにつれて子育てが楽しいと感じることもありました。

ですが、子どものためにと思っていても、寝不足が続いたり、反抗されたりするとイライラしてしまい、子どもに怒ってしまう。

怒ってはいけないと思っても怒り続けてしまう。


何度も育児本を読んで学び、怒らない子育てのセミナーに行っては、声かけの仕方を学びました。やり方を学んで「これで、優しいお母さんになれる」そう思い、実践しました。

最初は上手くいっていても何故か続かず、また怒ってしまい、子どもの寝顔を見ては「なんて最低な親なんだろう」と自分を責めていました。

私は、完璧な母親になりたかった。

聖母マリア様のように、どんな子どもの対応も優しく受け止められる、毎日笑顔で、料理も上手で、誰よりも穏やかな母になりたかった。

そんな親になれば、子どもも立派に育つはず。だから、必死に努力しました。

でも、できない…

できない自分を見るのがとても苦しかった。できない自分を責め続けていました。


次第に私は「完璧なお母さんになれないのは子どものせい」「夫のせいだ」と思うようになっていったのです。

夫を頼れない、信じられない、本音を言えない問題 – 根深い不信感 –

何事も完璧を求め頑張ってしまう私は、家事も育児も一生懸命にこなしました。

人に頼ったり甘えたりすることが苦手だったため、全部1人で背負い込んでイライラや不満を勝手に溜め込んでいきました。

夫は変わらず、夜遅くまで仕事をしてくれて「いつもお疲れ様」と声をかけてくれていました。

だけど、夫の優しい言葉さえも無神経に感じました。


「だったら、気を遣って手伝ってよ」

「もっと仕事を早く帰ってきて、家事をやってよ」

「もっと労いの言葉をかけてよ」

と、優しさを受け取れないクセに「頼まないと手伝ってくれない」「大変さが分かっていない」言わないと何もしてくれない夫に、不満がどんどん募っていきました。

何気ない話はできるのに

「助けて欲しい」「手伝って欲しい」の一言が何故か言えない

夫なのに家族なのに弱い自分を見せられない


「面倒くさい」「何で俺が?」と嫌がられたり、怒られたりしたらどうしよう…

ため息をつかれたり、嘘ついて裏切られるんじゃ…

夫の反応が怖くて本音を言えず、とにかく必死に我慢していました。

そんな不満が心のコップの中に溜まり、溢れてしまったとき、夫に爆弾を投げるように、怒りをぶつけては大喧嘩になりました。

最後には決まって「離婚だ」と逃げるように言い放っていました。

当時は本音が言えず、怒りに任せて攻撃ばかり。この本音を言えない問題も「幼少期のトラウマが関係していた」と言うことも、カウンセリングを受けて気づきました。

2人目が授からず、不妊治療へ – 失われた命への悲しみ –

元々生理不順だったこともあったり、一軒家に引っ越しをしたことも相まって、ストレスが溜まっていたのでしょう…なかなか2人目を授かれませんでした。

一人っ子は何かとマイナスなイメージがあり、何としても2人目が欲しかった私は、2年ほど不妊治療をしました。

痛い注射や、苦しい夜の生活にも耐え、ようやく授かれたと思ったのですが、残念なことに子宮外妊娠になり、授かった命とお別れになりました。

手術の前は「ドクドク」と鼓動が聞こえ、まだ人の形はないけれど、確かに私のお腹に命を宿していました。

別れはとても辛く、それ以上に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。「私のせいで、死なせてしまった」「ごめんね」と、自分を責めました。

入院後、心配して来てくれる夫の両親に申し訳ない気持ちになりました。入院中、会えない息子に早く会えるようにと、リハビリを頑張りました。

悲しむことを我慢し、自分の気持ちを見て見ぬふりをしていました。

ここでも「泣いてばかりだと周りに迷惑をかけるから早く気持ちを切り替えないと」と思い、他人を優先していたんです。

時折、何故か涙が溢れることがありました。最初はこの涙の正体が何かは分かりませんでした。

ですがカウンセリングを受け、自分と向き合っていく中で、私の所に来てくれた赤ちゃんへの想いだったことに気づきました。

赤ちゃんと離れてしまったことが、とてもとても悲しかったのです。

「せっかく来てくれた赤ちゃんと離れたくなかった」「また赤ちゃんに会いたい」そんな気持ちでした。

それから2年後、不妊治療の末に娘が生まれました。

夫婦間のストレスから過干渉へ – 繰り返される悪循環 –

娘が産まれたとき、夫は転職活動中で家にいました。

夫が1日家にいれば、家事などもやってくれるだろうし、少しは育児もラクになるだろうと期待しました。

「今度こそは上手く子育てができる」そう思っていました。娘が泣くたびに愛おしさが増し、大切にしたい気持ちが溢れました。


「今度こそ、子どもを怒らず育てよう」そう決意しました。

息子には、怒ってばかりだったから、「二度と同じ過ちは繰り返さない」そう誓ったはずなのに…気づいたらまた怒っていたのです。

夫が家にいるせいか、私は何故か居心地が悪く、気を許して休めませんでした。

また夫は転職中だったこともあり収入がゼロ。
お金がなくなることが怖くなり、お金に対してシビアになりました。

家にいても積極的に動こうとしない夫にモヤモヤする日々。夫がいるからラクになるはずなのにどんどんストレスが溜まっていきました。


次第に、夫に対するストレスを息子にぶつけるようになっていきました。

小学生になった息子の、友達関係にも口を挟んだり、ちゃんと宿題しているかどうか監視するようになりました。

息子の「え〜」という言葉すら、私に反抗しているように感じて、感情的になって怒っていました。

息子が謝ってくれても許せない、謝っているのに何度も息子を責めていました。

息子のことが大切なのに息子の顔を見ると無性にイライラして文句をぶつけてしまう。何故だかわからないけれど、次第に息子の甘えが許せなくなってきたのです。

「ママ抱っこ」「ママできない」「疲れた」今までは受け止めていた息子の言葉に、無性にイライラしました。

「触らないで」「泣き言ばかり言わないの」「疲れてるのはあなただけじゃない」と言い放ちました。

学校で頑張ってきた息子が、母親に弱音を吐いたり甘えるのは、子どもなら当たり前です。ですが、それすら嫌悪感や腹立たしさが湧き出てくるのです。

息子はとても頑張り屋さんで愛おしい存在なのに、目の前にいると憎くて仕方がない。

「なんで優しくできないんだろう」「どうして憎く思うんだろう」と、不思議で仕方ありませんでした。

どうして私は、優しいお母さんになれないの?アンガーマネジメントも学んだのにどうしてできないの?

息子に怒ってしまう自分が許せなくて、自分自身を叩くなど、自傷行為をするほど、自分をたくさん責めていました。


カウンセリングを受けた後に、素直に弱音を吐いたり甘えられる息子が羨ましかったことに気づきました。

私は、いいお母さんになろうと、ずっと頑張っていました。その頑張りを息子にも強要していたのです。

怒りが止まらない恐怖、自分を止められない – 限界の先に –

その後も、息子への甘えや弱音を許せず、毎日息子に怒っては、怒る自分を責める日々が続いていました。


息子の消極的な行動や否定的な言葉にいちいち反応し、文句や怒りをぶつけていました。

反抗する息子に「出て行け、うちの子じゃない」と玄関まで引っ張って追い出したこともあります。


息子は大泣きしながら「ごめんなさい」と何度も謝っていました。

気づけば、自分が過去に父親にされて怖かったことを息子にもしていました。

親の言うことを聞かないのは悪だ、「親として躾けないと」と、自分の間違った正義や責任感を押し付けていたのです。


そんな日々の中、私の中のどこかのネジが外れたように何もやる気が起きなくなりました。

洗濯物の畳み方も忘れたり、キッチンに立ってもすぐに寝転んだり、気づいたらボーっとしていたり、

今まで当たり前にできていたことが何もかもできなくなりました。

ただ息子の行動を見るとイライラしてカーっとなり怒鳴ってしまう、キレてしまう自分が止められない。

そんな自分が心底嫌いで、自分を叩いては息子に謝る。そして、家事も何も手がつけられなくなる。私自身、自分がどうなっているのか分かりませんでした。

産後鬱の症状でした。

これ以上、この生活を続けたら、息子が歪んだ性格になってしまう…もしかしたら娘も歪んだ性格になってしまうかも…

本来なら自己主張のできる素晴らしい子たちなのに…私のせいで、自信がもてない、自己肯定感の低い子になってしまうかも。

子ども達の未来を想像した時に、不幸な未来しか想像できないことに恐怖を感じ、とにかく私自身が変わらないと子どもたちを救えないと思い、カウンセリングを受けました。

そのカウンセリングこそが、自分の心の問題に気づき、子どもの心に寄り添えるようになった
「心の土台構築実践プログラム」と、ポポラスの代表、直子さんとの出会いでした。

自分に合うカウンセリングに出会うまで – 迷いと不安 –

今の状況を何とかしたくて、ネットで色々検索しました。

最初は、医療機関のカウンセリングにしようかと考えていました。医療機関の方が解決策を見つけてくれるかも…そんな気持ちからでした。

ですが、調べているうちに、私が一番気になっている「子どもを可愛いと思えない」と伝えるのが怖くなり、なかなか一歩踏み出せませんでした。

「これを伝えたら、引かれるかも」

「普通じゃないって思われたらどうしよう」

「何かの病気で入院だと言われたらどうしよう」


そんな気持ちになり、躊躇しました。


どうしたらいいのだろう…

不安だけれどやっぱり今の私の気持ちをわかってくれる人に話を聞いて欲しい…

できれば、娘が小さいので自宅でカウンセリングを受けたい…

そう思い、再度探し始めたとき偶然、直子さんのブログを見つけました。

  • 子どもを可愛いと思えない
  • カーっとなり怒鳴ってしまう
  • 最低な親だと、自分を責めている
  • 学んでいるのに一向に変われない など

ブログには、私と同じように苦しんでいた過去が綴ってありました。読みながら何度も「私と同じだ」と思いました。

「この人なら私の気持ちを分かってくれるかも」

「私に解決策を教えてくれるかも」

そう思った私は、お試しカウンセリングに申し込みました。

お試しカウンセリングでの衝撃 – 大きな気づき –

お試しカウンセリングの日、私はとても緊張していました。

子どもが可愛いと思えない自分のことを異常だと思っていた私は、否定されたらどうしよう、笑われたらどうしようと不安でいっぱいでした。

いざZoomで、お顔を拝見したら、カウンセラーの直子さんはとても優しそうな印象でした。

話し方も優しく、緊張しながらも自分の胸の中を話しました。直子さんは否定せず聴いてくれて、全て受け止めてくれたように思います。

私はいつも、アドバイスや、やり方など「正解」を知りたい人間でした。

正解を知っていれば、子育ては成功すると思っていたのです。

だから、カウンセリングでも正解や方法を教えて貰えると思っていました。

けれど、直子さんは

「やり方だけを知っても変わらない」

根本原因を見つけ改善することが必要」

「解決策は自分の中にある」


と教えてくれました。

私はどこかで「これを言えば」「こんな考えになれば」解決すると思っていたのですが

そうではなく、自分の気持ちが一番大切で、自身に寄り添うことで、子ども達にも寄り添えるようになるのだと知りました。

いくら育児本を読んでも、アドラーのセミナーや、アンガーマネジメントの講座を受けても身につかなかったのは

私自身の心の中に土台が育っていないから

だから、変われなかったのだとわかりました。

実践プログラムをやるにもお金が… – 葛藤と決意 –

変わりたいのに変われなかった理由がわかり、今すぐに挑戦したい気持ちでいっぱいでした。

けれど、実践プログラムは、約9ヶ月の長いカウンセリングと心の勉強です。学ぶにはお金が必要です。受講を簡単には決められませんでした。

専業主婦の私は、自分のためにお金を使うことに罪悪感を感じてしまい、決断するまでに時間がかかりました。

「もう何度も子どもを悲しませたくない」

「できることなら、この先は幸せになりたい」

「やりたい…でもお金が…」

私には、お金に対する強いブロックがありました。自分のためにお金を使うことに強い抵抗がありました。


「私なんかにお金を使うより子供の将来のために貯金したい」

「働いていない私は、お金を使ってはいけない」


そんな風に思うことが多く、お金の面でも勝手に我慢してしまうことが多かったのです。

そんな私の背中を押してくれたのは夫でした。
「受けてみたらいいんじゃない?」と、応援してくれたのです。私は「やってみよう」と一歩を踏み出しました。

見落としていた一番大切なもの – 心の土台を築く –

実践プログラムが始まり、月1回のカウンセリングの中で、最近あった出来事や困ったことをお話させてもらいました。

次のカウンセリングまでの間に不安に感じることがあれば、LINEで話を聞いてもらいました。

カウンセラーの直子さんのサポートのお陰で、少しずつ自分のことを知っていきました。

これまで私は、自分が何を感じているかなんて知りもしなかったのですが、過去に感じてきた不安や怒り、他人に対しての劣等感や比較癖。

失敗が怖いから息子に小言を言っていることも、できない所ばかりみてしまうクセも、夫に頼れない理由も、本音を話せないのも、全て幼少期のトラウマに繋がっていることに気づきました。

幼い頃に見ていた、父親と祖父のケンカや言い争い、忙しい母、誰も私をみてくれない孤独感、甘えられない寂しさ。

  • 自分は誰からも必要とされないのではないか
  • ありのままの自分では愛されない
  • 何かができる自分にしか価値がない
  • いつも孤独な私

愛されないことへの不安や恐れが、全ての根底にあったのだとやっと理解ができたのです。



それでも、自分自身と向き合う中で、不安や怖さ、自信のなさ。

本当の自分は弱いことを知ったとき、そんな自分がとても嫌になりました。

そんなときも、直子さんは

「そのままのあゆみさんでいいんです。」

「あゆみさんは家族から愛される人ですよ」


と、本当の私、ありのままの私を見て、受け入れてくださいました。


その瞬間、こんな私でもいいんだと心が温かい気持ちになりました。



直子さんが、母親や父親代わりとなり、どんなときも優しく根気強く寄り添いながら、ありのままの私を一緒に受け入れてくれました。

これまでずっと、「母親なんだから完璧でいなくちゃ」「できない自分はダメだ」そう思って色んなことを頑張ってきましたが

私に必要だったものは「完璧」ではなく「ありのままの自分を認め、受け入れること」だったのです。

不安や寂しさ、恐れを感じながら、これまで1人で一生懸命生きてきたのかと思うと

「辛かったね」「辛かったね」「1人で寂しかったよね」「よく頑張ったね」と、自分を労う気持ちでいっぱいになりました。

頑張っても頑張っても、自分を認めることができなかった私が、はじめて自分を受け入れることができたのです。

私は、ありのままの自分を受け入れ、心の中に安心という土台を再構築することができたことで、正体不明の不安や恐れから解放されました。

ここまで長い道のりでした。

最後まで読んでくださったあなたへ

長い長いプロフィールを読んでくださりありがとうございます。

現在の私は、自分の心を自分で守れるようになり、完璧を求めすぎず、肩の力を抜いて、ありのままの私で毎日楽しく過ごしています。

息子の「できない、無理」といった言葉にも、「分かるよ」と寄り添えたり、息子の甘えも受け入れられるようになりました。

2歳の娘のイヤイヤにも気長に付き合えるようになりました。


夫を頼り「手伝ってほしい」と言えることが増えて、少しづつ本音で話せるようにもなりました。

これまで色んなことがあったけれど、私は今とても幸せです。

あなたが、今

  • 怒りたくないのに感情のままに怒ってしまう
  • 子育てに必要な知識はあるのに、一向に変われない
  • できない自分を責めてしまう
  • 子供をかわいいと思えない
  • よくないと頭ではわかっているのに小言ばかり言ってしまう


このような悩みを抱え、何とか解決しようと頑張っているけれど、改善できないどころか、より悪い方向に陥っているとしたら…

どうか一人で頑張らないでください。

愛着障害やアダルトチルドレンは悲しいことに世代を超えて受け継がれているケースが多くあります。

後から分かったことですが、私の家族も世代間で連鎖していたケースでした。

私の父も、祖父に厳しく躾けられ、大人になってからも感情をぶつけられていました。親になってからは、私や兄、母に対して感情を爆発させ、いつも家族を自分の考えに従わせようとしていました。

その結果、私も兄も家族に感情的に怒るようになったり、物の言い方が父に似た言い方をしています。

「絶対に父のような怒る親になるものか」と思っていたのに、父と同じように怒りをぶつけるような親になっていました。

また、夫婦関係にも連鎖しており、母のように常に自分を犠牲にして家族を優先し、他人の顔色を伺うようになっていました。(子どもが親の真似をするってよくありますよね)


子どもの為にと頑張っているのに、知らず知らずのうちに自ら不幸になっていく…

そんな悲しい連鎖をなくしたい、本当の幸せを掴んで欲しい。

この強い思いが、カウンセラーとしての原動力になっています。


世代間連鎖を断ち切れるのも、あなたの人生を変えれるのも「あなた」だけです。

愛する家族と共に、次はあなたが幸せになる番です。

あなたにお会いできることを楽しみにしていますね。

ポポラス認定カウンセラーあゆみ