ポポラス認定 心理カウンセラー ちえこ

Story
悩みを克服したカウンセラーの道のり
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悩みを克服したカウンセラーの道のり
はじめまして。
ポポラス認定心理カウンセラーのちえこです。
ホームページをご覧くださり、ありがとうございます。

カウンセリングを受けよう──
そう決断するのってとても勇気のいることだと思います。
「このカウンセラーで間違いない?」
「私の気持ちわかってもらえるかな?」
申し込みボタンを押すその瞬間まで とっても不安だと思います。
私は、幼い頃から極度のあがり症で人前で話すことも苦手。自分に自信もなく、周りの目を気にし過ぎてしまう癖がありました。
「ちゃんと喋れなかったらどうしよう」
「こんなこと話して嫌われないかな、怒られないかな」
いつもそんなふうに思いながら過ごしてきました。
また、人と話す際、緊張で頭の中が真っ白になり、思うように言葉が出てこないことにも長い間悩まされてきました。
ですので、初対面でも極力緊張せずリラックスしていただけるように、安心できる雰囲気づくりを人一倍心掛けています。
カウンセリングを受ける場合、カウンセラーである私との相性がとても大切になります。
「文章からも人柄や想いは伝わる」と、私は思っています。ぜひ、あなたの直感を信じて下さい。
私がこれまでどんな風に生きてきて、どのような生きづらさを抱えどうやって克服したのか。そのすべてをまとめたプロフィールです。どうぞお時間をつくってご覧下さい。
プロフィール

生まれて初めての心の傷
私は群馬県の田舎町で生まれ、母と祖母との三人暮らしでした。
母は未婚で私を出産したシングルマザー。父のいない我が家では母が家計を支えていました。
母は夜の仕事をしていたので、夕方から深夜まで家を空けることがほとんどで、母が不在の間は祖母と二人で留守番をする生活でした。
我が家は、家族が揃っても、みんなで笑って楽しく過ごすことはほとんどありませんでした。
幼い頃から母と祖母は仲が悪く、二人が揃うと喧嘩ばかり。母が祖母を怒ることが多かった一方、祖母はとても短気な性格なので、母に言い返したり、不満そうな表情をしたり。
そんな二人のやり取りを見るたびに、私は憂鬱な気持ちになっていたことを、今でも覚えています。
そして、祖母は、夜になり私と二人になると、自分の不機嫌な感情を私にぶつけてきたので、優しくしてもらった記憶はほとんどありません。
今思えば、母から怒られるストレスを私にぶつけていたのかもしれません。ですが、当時の私にとって、祖母との留守番は、ただただ辛く、今でも苦い記憶として深く心に残っています。
そんな留守番中の出来事で、忘れられない出来事があります。保育園に通っていた頃、祖母との留守番中に、私が居間にあったポットを倒してしまったのです。
畳やこたつ布団が濡れているのを見た祖母は、突然怒り出し布団たたきを持って私を追いかけてきました。
「ごめんなさい、ごめんさない」と泣きながら謝っても許してもらえず、私はこたつの周りを必死に逃げ回りましたが、最後は布団たたきで叩かれひどく怒られました。

まだ幼かった私にとって、それは本当に怖い出来事でした…。
ポットを倒してしまったのは決してわざとではなかったけれど、「おばあちゃんがこんなに怒るのは、私が悪いことをしたからなんだ」という気持ちと、
「布団たたきのことをお母さんに話したら、おばあちゃんがまた怒られてしまうかもしれない」という不安から、私は母にこの出来事を話すことができませんでした。
この出来事は、大人になった今でも、そのときの光景が鮮明に思い出されるほど、私にとって大きな心の傷となりました。
自分の心に蓋をする、それが自分を守る方法だった
その後も、祖母は気に入らないことがあると、私へ怒りをぶつけてきました。
一緒にボードゲームをしていても、私が勝つと祖母は不機嫌になり、「もうやめだ!」と怒ってゲームを中断してしまうのです。そのたびに私は「勝ってごめんね。もう一回やろう」と謝って、祖母の機嫌を取るようにしていました。
本当はゲームに勝てて嬉しいのに、祖母の機嫌が悪くなるのが嫌で、素直に喜ぶこともできず、そのうち「私が勝たなければいいんだ」と無理やり思うようになり、祖母に負けるためにズルをしたこともありました。
そんな日々の中で、私は「祖母に怒られないように」「祖母の機嫌を損ねないように」と、いつも祖母の顔色ばかり窺い、自分の中の本音を抑え込んで過ごすことが当たり前になっていたのです。

大人になった私には、常に「人の顔色を窺ってしまう癖」がありました。
「相手を怒らせないように」「相手に嫌われないように」と、いつも他人の反応ばかりを気にして、自分の感情を抑え込んでしまう。
そして、相手を怒らせない言葉、相手が求める言葉を必死に探し、それを選んで発言するようになっていたのです。いつも、物事の中心は自分以外の人、それが当たり前になっていました。
幼い頃、家庭の中で自分の感情を抑え込むことが、私自身を守るための方法だったのだと、今なら理解できます。ですが、当時の私にそんなことがわかるはずもなく、成長と共に「人の顔色を窺う癖」は強くなっていきました。
たとえ自分のせいでなくても、相手の機嫌が悪くなると「私のせいかも…」と激しく不安に襲われる…そんな場面も多く、自分の感じていることや意見を言えたことはほとんどなかったように思います。
小さな心はいつも寂しさでいっぱいだった
祖母との留守番は、私にとって辛い時間でしたが、当時の私はその思いを母に伝えることができませんでした。
幼い私が母と過ごせた時間は、一日の中でほんの数時間。母はいつも時間に追われていて、親子のスキンシップもほとんどありませんでした。
夜、眠りにつくときも、いつも一人でベッドに入るのが日常で、小さなベッドが幼い私には広すぎて、毎晩心細かったのを覚えています。
夜中にふと目を覚ました時、まだ母が帰宅していないことがあり「このままお母さんが帰ってこなかったら…」と、不安に押しつぶされそうになることもありました。

本当は、夜に母と離れるのはとても寂しかったけれど、幼い頃から忙しい母を見ていた私は気持ちを伝えることができませんでした。
それは、
「お母さんが大変なのに、私がわがままを言ってはいけない」
「お母さんが忙しいのは、私がいるせいなんだ」
「私がいない方が、お母さんは楽になるんだ」
そんな思いが、心のどこかにあったからではないかと思います。
当時を振り返ると、家での私はいつも孤独感や寂しさでいっぱいでした。
家族と一緒にいても、いつもどこか一人だけ取り残されたような感覚が心の中にあったように思います。本当は、母にその気持ちをわかってほしかったけれど伝えられなかった。
きっと、家庭の中で「どんな気持ちも受け止めてもらえる」という安心感を、感じることができなかったからだと思います。
そしてその感覚は、いつの頃からか誰かと3人以上でいる空間にいるときに、より強く顔を出すようになっていきました。
誰かと一緒にいても、どこかで「私はそこにいない」ような、自分だけが仲間はずれにされているような…そんな感覚。
大人になってからは、ますますその傾向が強くなっていき、複数人で過ごす場面では、いつも“疎外感”を抱えるようになっていたのです。家庭環境や心を開ける相手がいなかったこと…。
影響しているものは、きっといくつもあったのだと思います。
でも、こんな環境の中で育ちながらも、それが自分の人生にどれほど大きな影響を与えているのか、当時の私は思いもしませんでした。
まさか自分の家族が「機能不全家族」と呼ばれるものだったなんて…大人になってからも、長い間、気づくことができなかったのです。
お父さんと呼びたかった人
家族に気持ちを話せなかった私にも、甘えられる人がいました。それは当時、母が交際していた男性です。
幼い私は、彼を心から慕い「パパ」と呼んでいて、彼も私を実の娘のように可愛がってくれました。会えるのはたまにでしたが、いつも優しくたくさん遊んでくれたので、私は彼が大好きでした。

いつしか「私のお父さんになってほしい」と願うようになり、勇気を振り絞ってその気持ちを伝えたこともありました。それだけ私にとって大切な存在だったのです。
けれど、私の願いは叶いませんでした。彼には、すでに家族がいたからです。
母からその事実を聞かされた時、私は母の言葉の意味をきちんと理解できませんでした。
けれど、「彼に家族がいることを他の人には話さなくていいのよ」と言われた私は、なんとなく「家の外で、彼をお父さんと呼んではいけないんだ」と感じるようになりました。
だから、友人から何かを聞かれても「お父さん代わりなんだ」と答えていたのですが、そう答えるたびに、どこか後ろめたい気持ちを抱えていたように思います。
運動会にも来てもらえなかったり、泊まりの遠出ができなかったり。そんな小さな寂しさが心の奥に少しずつ積もっていきました。
けれど、結局、母にも彼にもその気持ちを伝えることはありませんでした。
家の中ではパパと呼んでいるのに、彼が私の父親になる日は来ない。幼い私には、その悲しみと寂しさがとてつもなく大きくて、心の中がぐちゃぐちゃだったのを覚えています。
本当はお父さんになってほしい人なのに、友人には「お父さん代わり」と説明しなければならなかった。そのたびに、自分の気持ちにも嘘をついているようで、それがどれほど辛かったか…
だから、誰にも言えなかったけれど父親がいる友人を、心の底から羨ましいと思っていました。「なぜ私にはお父さんがいないんだろう」そんな思いばかりが心の中でぐるぐるしていたのです。
そして気づけば、「いつかパパは、私のもとからいなくなってしまうのかもしれない」という不安を、心の中に抱えるようになっていました。
本当は、不安でいっぱいで寂しかった。けれど、幼い私にはどうすることもできず、ただ日々を過ごすことしかできませんでした。
心のどこかで、母が何かに気づいてくれるかもしれない…そんな小さな期待を抱いていた時期もあったと思います。けれど現実には、母と彼の関係はその後も続き、私が大人になるまで終わることはありませんでした。
私は、幼いころからずっと「普通の家族」を夢見ていた。でも、どれだけ願っても私の求める家族のカタチからは遠のくばかり。
私がそばにいてほしいと願えば願うほど、その存在はどんどん私の心から離れていく…。
私にとって、家庭が「安心できる場所」になる日が来ることはありませんでした。
少しずつ壊れていく家族のカタチ
そんな中、私の心に大きな衝撃を与える出来事が起こります。
実は私の他にも、家族の形に寂しさや不満を抱えていた人がいました。それが祖母です。
私は時々、母とパパと三人で外食に出かけることがありました。
けれど、なぜか祖母が一緒だったことはほとんどなく、毎回家で留守番をしていました。当時の私は「なんでいつも三人なんだろう」と、子どもながらに不思議に感じていたのを覚えています。
そんなある日、積もり積もった祖母の感情が爆発しました。
夜、母が仕事へ出かけ、祖母と二人で留守番をしていた時のこと。何かの話の流れから、祖母は突然怒りながら大声で泣き叫んだのです。
「なんで、いつもばあちゃんだけ留守番なんだ!!」
当時小学生だった私は、あまりに突然の出来事に驚いて固まってしまいました。
祖母は泣きながら、「いつも一人で家に残されて、こんなの仲間外れだろ!」と訴えてきました。きっと、祖母にとって毎回の留守番はとても寂しくて辛いことだったのでしょう。
さらに祖母は、食器棚から母とパパの湯呑みを取り出し、キッチンの壁に向かって投げつけたのです。
湯呑みが割れる音と、祖母の声がただただ怖くて、私は泣きながら「おばあちゃん、やめて!」と必死に祖母を止めようとしました。

けれど、感情が爆発してしまった祖母に、私の声が届くはずもなく、私もどうすればよいのかわからず一緒に泣くことしかできませんでした。
祖母のあんな姿を見たのが初めてだった私は、言葉では言い表せないほどの不安と恐怖で、胸が押し潰されそうでした。
祖母からは、母に言わないよう口止めされましたが、私にとってこの出来事は、あまりにもショックが大きくて、誰かに話すことなんてできませんでした。
そして、私はこの出来事があってから、三人で外食に出かけるたびに、祖母を置いていくことへの罪悪感や、祖母の気持ちを知っていてもどうすることもできない無力感に襲われるようになっていったのです。
今振り返ると、私は、祖母の思いを背負ってしまっていたのだとわかります。でも当時は、誰にも話すことができなくて、どうすればいいのかわからなかった。
あのときは気付けなかったけれど、本当は子どもの私が一人で抱えるには荷が重すぎて、心は限界だったのかもしれません。
祖母を誘わない母とパパへの憤りや、私自身も祖母を傷つけているのかもしれないという不安。
さまざまな思いが次々と溢れてきて、気が付けば、「こんな家族いやだ…」そんなことを思うことが増えていきました。
頭の片隅で、「私の家族は普通じゃない」そう思っていましたが、まさかそんな家族への思いが“心の傷”として刻まれ、やがて人生の中でさまざまな「問題」となって現れてくることになるなんて…
当時の私は、全く気付いていませんでした。
やっとみつけた自分の居場所
家庭の中では心がボロボロの私でしたが、小学校での学校生活は友人関係にも比較的恵まれ、平穏な日々を送っていました。
保育園時代からの友人がそのまま同じ小学校へ進学したことや、学校全体が学年を超えて仲の良い雰囲気だったこともありますが、何よりも担任の先生が面倒見の良い先生ばかりだったことにとても救われたように感じます。
おかげで、家庭の中では見つけられなかった「自分の居場所」を、学校生活の中では少しずつ見つけることができたように思います。私にとって学校で過ごす時間はとても大切な時間でした。

ただ、家庭で安心感を得られなかった私は、すでにこの頃から「人との距離感」がうまく掴めずにいました。
人から嫌われないように「いい子」でいることをいつも心がけていて、周りに合わせることも当たり前になっていました。
自分とは違う友人に対して、心の中で嫉妬や妬みのような黒い感情が溢れていても、それを表に出さないようにと必死でした。
仲は良くても、自分の本音をさらけ出せない、そんな感覚がいつも心のどこかにありました。だから、家庭で感じていた不安や寂しさを、誰かに話すこともできませんでした。
きっと「私の全てをさらけ出してしまったら、ここでも自分の居場所がなくなってしまうかもしれない」という不安が、ずっと心の奥にあったのでしょう。
けれど、それでも、小学生時代は一緒に遊べる友人がいるだけで十分に楽しかったのです。
外ではいつも頑張り屋さん
そんな私は、幼い頃からとても内向的で、極度の「あがり症」でした。人前に立つのがとても恥ずかしく、緊張から顔が赤くなってしまう赤面症もあり、授業中に積極的に発言するタイプではありませんでした。
それでも小学校時代の私は、学級委員や児童会役員に自ら立候補するなど、何かの“代表”になることに一生懸命でした。赤面をからかわれて嫌な思いをしたこともありましたが、代表に選ばれると、とても誇らしい気持ちになったのです。
テストで良い点数を取ったり、運動会のかけっこで1位になったり、リレーの選手やブラスバンド部の部長に選ばれたり。学校での私は、いわゆる「優等生」だったと思います。
なぜ、そこまで頑張っていたのか。それは、頑張る私を母が褒めてくれたからです。

「学級委員なんてすごいじゃない!」「テストがんばったね!」そんなふうに声をかけてもらえるたびに、私は「自分の存在が認められた」と感じて、とても嬉しかったのです。
私の母は、世間体をとても気にする人で、「父親がいないことで、周りから馬鹿にされないように」といつも必死でした。
何かあるたびに、「旦那がいないからって、あの人はうちのことを馬鹿にして!」と愚痴をこぼすことも多く、そのたびに私も惨めな気持ちになっていました。
でも、そんな母も私が学校で何かを頑張って結果を出すと、喜び褒めてくれました。それが本当に嬉しかった。そして、どこか誇らしげな母の姿を見るのも、私は嬉しかったのです。
けれど、今思えば、私はあの頃からずっと「母に認められたい」という思いを心の中に抱えていたのだと思います。
母に褒められることでしか、自分の価値を感じられなかった私は、知らず知らずのうちに「頑張ること=愛されること」と思い込むようになっていたのかもしれません。
その思いは大人になってからも深く残り、「周りからもっと認められたい」「誰かに必要とされたい」という、強い承認欲求となって現れていきました。
仕事でも人間関係でも、「期待に応えなきゃ」「ちゃんとしてなきゃ」と、いつも頑張りすぎてしまう。
でも、その一方で、思うように認めてもらえなかったり、頑張りが評価されなかった時には、心の奥でひどく傷ついている自分がいたのです。
少しずつ現れ始めた心の変化
そんなふうに、外の世界で頑張ることで自分を保っていた私ですが、中学校に進学すると、少しずつ心の中に変化が生まれていきました。
中学生になり、大きく変わったのは友人関係でした。幼い頃からの友人たちが、なぜか少しずつ私を避けるようになったのです。
理由はわからないまま、距離だけができていくことが、私にはとても悲しく寂しいことでした。

なぜ彼女たちが私を避けるのか。それがわからなかった私は、一度だけ、母に「最近○○ちゃんが私と喋ってくれない」と弱音を吐いたことがありました。
けれど、その時母から返ってきた言葉は「あそこんちの親は、お母さんとパパが不倫関係なのを知ってるから。子どもにも話してるんじゃない? 馬鹿にしてるのよ。」
たったそのひと言。
あまりにもショックで、言葉が出ませんでした。そのとき私は、はっきりと感じたのです。「こんな家庭で育っているから、友人から無視されるんだ。」と。
自分ではどうすることもできない“家庭の事情”が、友人関係にまで影響している…。母の言葉でそう思った私は、心のどこかで“自分を責めるような感覚”を抱え始めていたのかもしれません。
「やっぱり私は人とは違う」
「やっぱり私は普通の子じゃない」
「やっぱり私は人から嫌われる存在」
そんな思い込みが、少しずつ私の中に根付いていきました。
本当は、私だって普通に友達と笑い合える“普通の子”でいたかった。
けれど、その気持ちを言葉にすることもできず、ただ胸の奥にしまい込みました。そして、その日以降、私が母に弱音を吐くことはありませんでした。
「あがり症」が私に残したもの
それでも私は、部活動の友人や大好きな英語の学びに救われながら、なんとか自分の居場所を探していました。
そして、小学生の頃と同じように、私は必死で頑張り続けました。でも、思春期を迎えた心と体は、もう頑張るだけでは言うことを聞いてくれなくなっていたのです。
緊張すると顔が真っ赤になり、動悸が激しくなる。そして脇には大量の汗をかき、口が乾ききってしまう。
「あがり症」の症状はひどくなり、大事な場面で思うように力を出せず、失敗が続くようになりました。
頑張って準備して、「絶対に大丈夫!」そう思っていても結果に繋がらない。本当に悔しくて情けなくて悲しかった。でも、そんな弱い自分を誰かに見せるのが、当時の私はとても怖かったのです。

「弱い私を見せたら、もっと嫌われてしまう」
そんな思いが、私をさらに追い詰めました。だから、私はどんなに辛くても、“頑張り屋さん”の仮面をかぶり続けるしかありませんでした。
きっと子どもの頃から、緊張している自分を見せないようにする方法だけは、たくさん身に着けていたのだと思います。だから大人になって人前に立ったとき、恐ろしいほどの緊張に襲われていても、それを隠すのだけは得意でした。
それなのに、たとえば本当の気持ちを誰かに打ち明けても「全然そんなふうに見えないよ」「大丈夫だよ」と返されてしまうことが多くて…。
そのたびに私は、心の中で少しずつ傷ついていました。こんなにも緊張して怖くて仕方ないのに。その気持ちを誰にもわかってもらえない…それがただ悲しかった。
あの頃の失敗体験が、どれだけ私の心に深く刻まれていたのか、今はよくわかります。
大人になった今でも、人前で何かをする場面になると、あの時の感覚がフラッシュバックのように蘇ることが何度もあります。もちろん無意識のうちにです。そしてその感覚が私をひるませてしまう。
あのときの失敗の数々が、「また同じことが起きるかもしれない」という恐れとなって、今の私の行動を止めようとするのです。
そして、あの頃の私を苦しめていた「あがり症」が、「社交不安障害」と呼ばれる心の病と同じであることを知ったのは、
本当にごく最近のことです。まさか、あの“頑張り屋さんの仮面”が自分をますます苦しめ、そして将来の自分にとっての「トラウマ」になっていたなんて、当時は想像もしていませんでした。
私なんて生まれてこなければよかった
友人関係が大きく変わっていく中で、私には、たった一人相談できる存在がいました。それは二つ年上の従妹、母の妹の娘です。
同じ県内に住んでいましたが、従妹の家庭の事情で頻繁に会うことができず、いつの頃からか夜中になると二人で電話で話すようになっていました。どこか寂しかった私にとって、当時の従妹は唯一の心の拠り所でした。
ですが、ある日のこと、 電話越しに従妹から信じがたいことを聞かされました。
それは、「私の実の父には別に家庭があり、独身の母とは不倫関係だった」という事実。
私は、その不倫関係の中で生まれた子どもだったのです。
幼い頃、「お父さんは、あなたが生まれる前に亡くなった」と母に聞かされていた私は、その瞬間、頭が真っ白になりました。
さらに従妹は、私の知らない母の過去を、次々と楽しそうに話し始めたのです。私は心の中では 「もうやめて!」と叫んでいたのに声が出なかった。思わず耳を塞ぎたくなるくらい、聞きたくないことばかりでした。
「どうして母は隠していたの?」
「なぜ父が亡くなったなんて嘘をついたの?」
「そもそも、どうして私を産んだの?」
「なぜみんな私のことを傷つけるの?」
「なぜ従妹は楽しそうにそんな話をしてくるの?」

母たちに心の底からぶつけたい思いが溢れてきました。胸の奥が、怒りや悲しみ、どこからくるのかわからない罪悪感でいっぱいになって、頭も心もぐちゃぐちゃになっていきました。
叫び出したくなるほどの想いが渦巻いていたのに、私は何ひとつ本音を口にすることができなかった。誰かに助けてほしくてたまらなかったのに、母にも、誰にも本当の気持ちを打ち明けることはできなかったのです。
どうして従妹が、あのタイミングでそんな話をしてきたのか…当時の私にはまったくわかりませんでした。
私が大人になってから、「当時ちーちゃんに嫉妬していた」と、母を通して聞いたことがあります。
従妹も複雑な家庭環境の中で育ち、当時は非行にも走っていました。もしかすると抱えきれないストレスを私に向けることで、従妹自身の心を守っていたのかもしれません。
でも、そんな背景を当時の私が理解できるわけもなく、たったひとりの拠り所だった従妹への信頼は音を立てて崩れていきました。
もう誰を信じればいいのかわからない…。
だからこそ、部活の友人に打ち明けるなんて、到底できるはずがありませんでした。「もし話して、引かれたら…嫌われたら…私はもう生きていけない」そう思うと、怖くてたまりませんでした。
そんな出来事が続く中で、私は自分の存在そのものがわからなくなっていきました。そして、気づけば、こんなことを考えるようになっていたのです。
「私なんて、生まれてこなければよかった」
誰かにそう言われたわけではありません。けれど、従妹の言葉を聞いたとき、私はまるで自分の存在そのものが間違いだったかのように感じていたのです。
あの時の私は、きっとそんなふうに思うことでしか、自分を守ることができなかったのだと思います。でも、それは同時に自分自身を深く傷つけていくことにもなっていました。
「もう、死んでしまいたい」
初めて生きていることが嫌になった瞬間でした。
けれど、その言葉すら母には言えなかった。もし私の気持ちが否定されてしまったら、どうなってしまうのか…それを想像するだけで怖くてたまらなかったのです。
それに──
あのとき私を引き止めたのは、もしかしたら「母の存在」だったのかもしれないと思うことがあります。信用できなくなっていたはずの母の気持ちを、どこかで優先してしまう自分がいた。
「もし私がいなくなったら、母が壊れてしまうかもしれない」子どもながらに、そんなふうに想像してしまったのだと思います。
私は、「自分を大切にすること」よりも、「相手を守ること」を先に考えてしまうようになっていたのかもしれません。
今の私から見れば、あのとき「死」を選ばなかったのは、もしかしたら、心の奥にほんの少しだけ「それでも生きたい」という気持ちが、残っていたからかもしれない。そんなふうに思えます。
でも、当時の私は、生きる意味がわからなくなるほど、心がズタズタに引き裂かれていて、その痛みはあまりにも大きくて、正面から向き合うなんてとてもできなかった。
だから私は、その傷を心の奥にしまい込み、まるで“なかったこと”のようにして生きてきたのです。自分の人生から切り捨てた…少なくとも、そう思い込もうとしていました。
けれど、その深くて大きな傷は、なくなったわけではありませんでした。人生の中で困難にぶつかるたびに、最後は「私がいなくなればいいんだ」という思いとなって、長い時間、そして色々な場面で私を苦しめ続けていくのです。
母からの期待、初めての小さな反抗
中学3年生になった頃、進路についての話が出始めました。
小学生の頃から頑張り屋だった私は、気づけば、どんどん母の期待を背負うようになっていました。
でもその頃の私は、家族のことで心がいっぱいいっぱいで、本当は苦しくてたまらなかった。そんな私の気持ちに、母は気づいていなかったのだと思います。
そんな中、母は当然のように、自分が行って欲しい進学校を私に勧めてきたのです。そこに行けば田舎町では、すごいと言われるような学校でした。中学校の先生から成績的にも問題ないと言われ、母の期待はますます大きくなっていきました。

でも、私はどうしてもその学校に行きたくなかった。
同級生のことさえも、信用するのが怖かった私は「地元の人が通う学校へは、絶対に行きたくない」そう思っていたのです。
それに、大好きだった「英語」をもっと本格的に学べる学校を選びたいという気持ちもありました。
その高校は、地元の先輩も同級生も誰も進学しない場所。だから私は、あえてその学校を志望しました。母からは「もっと近くに良い学校があるじゃない。」と反対されましたが、私は、英語をもっと学びたいことだけを伝え続けました。
けれど本当は…
「私のことを誰も知らない世界に行きたい」
「まだ見ぬ誰かに、こんな私を受け入れてほしい」
そんな願いの方が、心の奥ではずっと強かったのです。
でも、幼い頃から母に本音を言えなかった私は、その気持ちを口に出すことができなかった。だから、「英語を学びたい」という正当な理由を伝えるしかなかったのです。
私の意志が揺るがなかったこともあり、最終的に母はしぶしぶその選択を受け入れてくれました。
あのとき、母の期待ではなく、自分の気持ちを選んだこと──思春期でさえ反抗できなかった私にとって、それは人生で初めての「小さな反抗」でした。
人生をやり直すはずだったのに
志望校に進学した私は、自分のことを誰も知らない環境で、新しい人生をスタートさせようとしていました。
「英語を学びたい」という気持ちを胸に、ようやく自分の意思で選んだ道を歩き出せたことに、少しだけ希望を感じていたのです。
でも、少しずつ思い描いていたようにはいかなくなっていきました。高校で新しく出会ったある友人は、私の家庭の事情を知っても否定せず、すっと受け入れてくれました。それがどれだけ嬉しかったか。

家族の中でさえ、安心できる場所がなかった私にとって、誰かにそのままの自分を受け入れてもらえる経験は初めてのことだったのかもしれません。
ただ、実は自分が「不倫関係の中で生まれた子であること」だけは、どうしても言えずにいました。そんな事実を伝える必要はない、そう思っている私もいました。
でも本当は、それすらも打ち明けて、「そんな自分ごと受け入れてほしい」と願っていたんだと思います。
言えないままの私と、受け入れてほしい私。その狭間で揺れながらも、私はその友人のそばにいることで安心を感じていました。
けれど、その安心感はやがて、「依存」へと変わっていきました。
その子が、別の子と仲良くし始めると、たちまち心がざわつき不安になる。つい不貞腐れたような態度をとってしまったり、「もう全部どうでもいい」と投げやりになってしまったり。
彼女が、私以外の子と過ごす時間が増えていったとき、まるで自分が見放されたような気持ちになって、学校に行くことが苦しくなることもありました。
ある日、担任の先生に「退学したい」と言い出してしまうほど、私は心の中がぐちゃぐちゃになっていたのです。もちろん、本当の理由は先生には言えませんでした。
「友達が他の子と仲良くしているのがつらい」なんて、恥ずかしくて言えなかった。だから、もっともらしい理由を口にして、その場をごまかしました。
結果的に退学は止められて、私はそのまま通い続けることになりましたが、その後も彼女が他の子と楽しそうにしている姿を見るたびに、胸の奥がざわざわするような感覚が消えませんでした。
何気ない会話の中で、別の友人の話が出るだけで、嫉妬や不安でいっぱいになる…そんな日々の繰り返しでした。
何人かの友人がいた中で、こんな気持ちになるのは彼女だけ。友人関係であっても、関係が深くなればなるほど私の中の「不安」は強くなっていったのです。
今なら、その背景に「親との愛着形成の問題」があったのだとわかります。でも、当時の私は、まさかそのとき感じていた思いの裏に、自分の家庭環境が関係しているなんて思いもしませんでした。だから、自分の感情にどう向き合っていいのかも全くわからなかったのです。
そんな不安定な日々もありましたが、その友人のおかげで他校にも友人ができたり、他にもたくさんの人たちに恵まれ、結果的に高校生活は「楽しかった思い出」として残っています。
努力=生きていい理由だった
そんな高校生活の中で、ひとつだけ「後悔」として残っていることがあります。
それは、高校生活の中で、学業への気持ちが少しずつ薄れていってしまったこと。
本来なら、「英語を学びたい」という思いがあったからこそ、この学校を選んだはずなのに、あの頃の私は、友人関係を築くことに必死で、新しい友人を失うことが怖くて、いつの間にか英語への情熱すらも手放してしまっていました。
たとえテスト前でも、友人たちが「勉強しない」と言えば、自分もそうしてしまう。
心のどこかでは「せっかくこの学校に来たのに…」と感じていたけれど、「もし自分だけが頑張って成績が上がったら、抜け駆けと思われて離れていってしまうかもしれない」そんな想像ばかりが膨らんで、勉強することから逃げていったのです。

きっと当時は、「友人を信じたい自分」と「信じきれない自分」が、心の中でずっと葛藤していたのだと思います。
自分で選んだ道とはいえ、「新しい世界で人生をやり直すこと」は、実はとても難しかった。そんな中で、私なりに精一杯頑張っていたのだと思います。当時は友人が離れていくことが怖くて、全てを友人に合わせてしまっていた。
そして、あの時、本当に大切だった「英語を学びたい」という気持ちを自分で手放してしまったこと。
それが“後悔”という形で、私の心の奥に残っていたことに、最近になってやっと気づきました。
友人と離れることが怖くて、すべてを合わせてしまった高校時代。でも、それ以上に、本当は…「努力することをやめた自分」を見るのが怖かったのかもしれません。
なぜなら、あの頃の私にとって、努力=“生きていていい理由”だったから。
幼いころから、頑張っていれば、迷惑をかけなければ、期待に応えられれば、きっとここにいてもいい。
そうやって、自分の存在をなんとか保っていた。だから、その“生きていい理由”である努力を手放したことは、まるで「生きる意味」そのものを失ったような、そんな感覚だったのかもしれません。
結局私は、英語への思いを手放しただけでなく、「がんばりたい」と思っていた自分の気持ちさえも、なかったことにしてしまった。だからきっと今も何かに挑戦しようとするとき、ふと心の奥がざわつくんです。
「また頑張れなかったらどうしよう」
「また誰かをがっかりさせてしまうかもしれない」
そんな怖さを感じながらも、私は今、少しずつ “自分のためにがんばる” ということを、やり直しているのかもしれません。
誰の人生を生きてたんだろう
高校に入った頃、私は「英語を使う仕事に就きたい」と思っていました。教師や通訳への憧れもあり、大学進学も視野に入れていました。
けれど、家庭の経済的な事情から、母から「進学するなら国立にしなさい」と、言われ続けていました。その一言が、当時の私には、どこかとても重たく感じることもありました。
高1の三者面談で「今の成績では国立は難しい」と担任から告げられた時の、母の落胆した表情が今でも忘れられません。

「お母さんの勧めていた進学校に行っていたら、こうはならなかったのかもね」そう言われたとき、胸の奥がぎゅっと締めつけられました。
結局、「結果を出せない私は、母から認めてもらえない」そんなふうに感じていたようにも思います。
あとから知ったのですが、母には学歴への強いコンプレックスがあったそうです。中卒だった母は、自分が歩めなかった道を私に託していたのだと思います。
『進学校から国立大学へ進学、その後は安定した職に就き、さらに、安定した職に就いた男性と結婚する』それが、母の思い描く“私の人生”でした。でも、私はその高校の時点でレールから外れてしまった…。
そして、高校3年生になる頃、美容系の専門学校に惹かれるようにもなっていきました。
「東京の学校なら、家を出られるかもしれない」どこかで、そんな淡い期待も抱いていました。けれど、その希望も母にはっきりと否定されました。
「うちの経済状況では、そこへは行かせられない」そうして、私の中に残されたのは「就職」という選択肢だけでした。
気づけば私は、この頃から「何かを目指すこと」自体がだんだん面倒に感じるようになっていました。
今思えば、この感覚は、大人になってからの私にもずっと残っていたように思います。何かをやろうと思っても長続きせず、すぐに諦めてしまう自分に、いつもどこか自己嫌悪を感じていました。
それもきっと、母の期待に応えられなかったあのときの体験で、身についてしまった“あきらめ癖”が今の私にも残っていたからなのかもしれません。
私は幼い頃から、何かを「やってみたい」と言っても、「それは無理」「お金がない」の一言で終わってしまうことばかりでした。そのたびに
「私は何かを望んではいけないんだ」
「受け入れてもらえないんだ」
と感じてきたように思います。
本当は、私の気持ちをただ聞いてほしかった。
「やってみたいんだね」「そう思ってるんだね」って、気持ちをそのまま受け止めてほしかった。
でも私は、母の望む道を選ばなければ、否定されてしまうような気がしていました。
だから最終的に、「母を助けたいから」と就職を選んだのは、自分でも納得できる理由をつくりたかったからなのかもしれません。
親のために、と言っていれば、自分でも納得できる気がしていたのです。当時の私は、「親孝行な娘」でいることで、母に認めてもらおうとしていたのだと思います。
がっかりされたくなかった。否定されたくなかった。だから、結局最終的には自分の気持ちに蓋をして、いい子のフリをしたのです。
「進学も、美容の道も、仕方なくあきらめた」そう思おうとしていたけれど、本当はそうじゃないと感じていた自分も、どこかにしっかりといたんだと思います。
今振り返ると、私はずっと、「自分の人生」を生きていなかったのかもしれません。
「母のために」「母から認めてもらえるように」その思いは、大人になってからも、私を支配していきました。
恋愛に映し出されていた“私の心のクセ”
自分のことを誰も知らない環境で、新しい人生をスタートさせようとしていた高校時代。けれどその頃から、私は人間関係に悩むことが増えていきました。
幼い頃、親との関係の中でしっかりと愛着を築くことができなかった私は、相手との心の距離が近くなればなるほど、嫉妬や不安、寂しさや怒りなど、いろんな感情に飲み込まれるようになっていったのです。
特にその傾向が強く現れるようになったのが“恋愛”でした。
嬉しいはずの恋愛なのに、気づけば相手の気持ちばかりが気になってしまう。自分でも苦しいくらい、感情に振り回されていくようになりました。
今思えば、私の恋愛には、いつも陥ってしまう“あるパターン”がありました。
- 彼氏ができると、友人よりも彼氏優先になってしまう
- 時間が許す限りずっと一緒にいないと不安になる
- 相手が他の女性と話をしているだけで嫉妬してしまう
- 少し返信が遅れるだけで不安になり、何度も連絡してしまう
- 「好き」と言ってもらえないと、不安に駆られてしまう
- 嫌なことも「嫌だ」と言えず、相手に合わせてばかりになる
- 自分の本音はいつも言えなくなる
- 意見がぶつかると、不安になり機嫌を取ろうとしてしまう
- 相手の気持ちがわからなくなると、“お試し行動”をとってしまう
こうして並べてみると、愛着の問題がしっかりと現れていることがわかります。でも、当時の私は、そんなことには全く気づかず、恋愛ではいつも拗らせるばかりでした。
「愛されたい、大事にされたい」
「誰かに必要とされたい」
「誰かの一番でいたい」
その思いがとても強くて、相手から「重い」と言われ、離れていかれてしまうことも多かったように思います。いつも相手の気持ちばかりを優先し、“自分の気持ちを大切にする”なんて考えたこともありませんでした。
そんな恋愛を繰り返すうちに、DVやモラハラ傾向のある男性と付き合ったこともありました。

理不尽に怒鳴られても、暴言を吐かれても、周囲から「別れたほうがいい」と言われても、自分から離れるという選択ができなかったのです。
「嫌われたくない」
「見捨てられたくない」
そんな不安ばかりが心の中にあって、気づけば、“都合のいい女”になってしまっているような恋愛もありました。大切にされないと分かっていても
「ここにいなければ、私は誰からも必要とされない」──
そんなふうに、どこかで思い込んでいたのかもしれません。
一度目の結婚と深まっていった自己否定
私には、数ある恋愛パターンの中で、どうしても受け入れられずにいた“ある癖”がありました。
それは──付き合っている相手がいても、他の誰かに好意を向けられると、心が揺らいでしまうこと。
頭では「いけない」とわかっているのに、心が勝手に動いてしまう。そんな自分が理解できず、何度も自分を責めました。
「私は人として欠けているんだ」
「弱くて、どうしようもない人間なんだ」
そう思い込むしかなかったのです。
友人に打ち明けても、返ってくるのは厳しい言葉やがっかりした表情。そのたびに「やっぱり私はおかしいんだ」と、自分をさらに嫌いになっていきました。
誰にも理解されず、受け止めてもらえず、私はただ、自分の中でその傷を抱え続けるしかありませんでした。
今思えば、私は彼氏に対して少しでも不安を感じると、「安心」をくれる相手を無意識に探していたのだと思います。母に求めたかった愛情を、私はずっと異性に重ねていた。

しかも私は“不貞の子”として生まれ、母が関係を持っていた相手も、家庭のある男性でした。そんな環境で育った私は、もしかすると「浮気=いけないこと」という感覚そのものが、どこか歪んでいたのかもしれません。
当時のことを思い出すと、今でも胸が苦しくなります。「これを“愛着の問題”と呼んでいいのだろうか」今も時々、そんなふうに迷う自分がいます。
それでも、あの頃の私は確かに愛を求めて必死だったのだと思います。
そしてその影響は、結婚という選択にも及びました。
20代半ば、私は学生時代に一度交際していた男性と再会し結婚しました。けれど、結婚生活の中で不安や孤独を感じ始めたころ、私は当時の職場の既婚男性と不倫関係になってしまいます。
どんな理由があっても、誰かを裏切る行動だったことは間違いありません。それでもそのときの私は、それ以外の方法がわからなかった。
心が勝手にその人の方へ動いてしまい、やがてそのことが夫に知られ、結婚生活はわずか1年で終わりました。相手も私の離婚を知り、逃げるように私のもとを去っていきました。
「結局私は、こうなってしまうんだ…」
「やっぱり私は誰かを傷つけてしまうんだ…」
そんな思いが何度も頭の中をよぎり、後悔と罪悪感で、自分をさらに深く否定していきました。
そのときの私は本気で思っていました。「この世から自分を消してしまいたい」と。自分は“不貞の子”として生まれたのに結局、自分自身も“不貞”という形で人を傷つけてしまった。
私の体に流れる血液や細胞まで汚れているんだ──。そんな自分がどうしても許せなかったのです。
一度目の離婚のあとに、また繰り返してしまったこと
その後、しばらく恋愛からは距離を置いていたはずなのに、気づけば、私はまた既婚者を好きになっていました。
不貞によって一度結婚を終わらせたはずの私が、再び“人に言えない恋愛”に足を踏み入れていたのです。
罪悪感と孤独が、私の心をどんどん追い詰めていきました。やがて心も身体も壊れていくような感覚に襲われ、夜になると涙が止まらない日が続きました。食事の味もわからず、仕事中にも涙がこぼれてくる。
ついに私は、仕事を休み病院を受診しました。──診断は「うつ病」。

けれど私は、医師にすら「既婚者を好きになった」と打ち明けられませんでした。“いけないこと”だとわかっていたから。
話してしまったら、もっと自分を嫌いになりそうで…。 私はまた、ひとり苦しみの中に閉じこもっていきました。
そしてその恋愛から抜け出すために、“次の相手”を探すようにして付き合い始めたのが、二人目の夫でした。
彼は私より6歳年下で、どうして惹かれたのか、今思い返してもはっきりとはわかりません。ただ、あの頃の私は何かを埋めたくてその存在にすがっていたのかもしれません。
二度目の結婚と気づけなかった心のサイン
その後、彼との交際は続き、いくつかの迷いを抱えながらも、私は彼との再婚を選びました。
交際中から、モラハラ気質のようなものが見え隠れしていたことに気づいていたけれど、私はどこかでこう思っていました。
「私がなんとかしてあげなきゃ」
「私がこの人を変えるんだ」
今思うと少し恥ずかしいけれど、当時の私は、“母性”を勘違いしていたのだと思います。
「私ならこの人を変えられる」と、心のどこかで本気で信じていました。それは母性なんかではなく、自分の中の傷や寂しさが、そうさせていただけなのかもしれません。
そして気づけば、相手との関係から、うまく抜け出せなくなっていました。
時間が経つにつれ、私たちの関係は次第に主従のような形になり、言葉や態度による支配が、少しずつ私の心を蝕んでいきました。
あの頃の私は、
「これは一度目の離婚で相手を傷つけた“罰”なのかもしれない」
そんなふうに思って、どんなに苦しくても耐えることを選びました。
でも今振り返れば、それは“罰”ではなく、自分を責めることでしか心を保てなかった、当時の私の精一杯の選択だったのだと思います。
そしてある日、大きな喧嘩のあと、彼の強引な行動に深く傷つき「もう限界かもしれない」と、心の中で感じ始めたころ──妊娠がわかりました。
そのときに宿ってくれたのが、今の息子です。

正直、あのときの私は戸惑いと混乱の中にいました。喜びよりも、「これからどうすればいいんだろう」という不安のほうが先にこみ上げてきたのを覚えています。
それでも、その小さな命が宿ってくれたことで、私はもう一度、しっかりと生きていこうと思えた。
息子の存在は、私にとって“生き直すための出発点”でした。
孤独な子育ての始まり
息子を出産して1週間後、東日本大震災が起こりました。社会全体が大きな不安に包まれる中、私は実家に里帰りしながら、慣れない育児に精一杯向き合っていました。
ある夜、息子が何をしても泣き止まず、私自身も心身の限界を迎えていました。

そんな中、突然スマートフォンから鳴り響いた緊急地震速報のアラーム音。その音を聞いた瞬間、私の中で何かがプツンと切れました。
恐怖と不安、そして眠れない日々の積み重ねで、心が押しつぶされそうになり、思わず「もうやめて!」と声を荒げてしまいました。そして、ほんの一瞬、息子の体を揺らしてしまったのです。
冷静になってから後悔と罪悪感で押しつぶされそうになった私は、翌朝そのことを夫に電話で打ち明けました。
きっと私は、「大丈夫だった?」「大変だったね」そう言ってもらいたかったのだと思います。けれど返ってきたのは、「次やったら二度と許さないからな」──その一言だけでした。
あのときの私は、ただ「助けて」と言いたかっただけだった。けれど、その思いが彼に届くことはありませんでした。
二度目の離婚
里帰りから自宅に戻ってからも、育児の日々は続きました。
息子は本当にかわいくて、笑ってくれるだけで救われるような気持ちにもなりました。けれど同時に、終わりのない授乳と寝不足、初めての子育てに対する不安が、日々少しずつ私を追い詰めていきました。
夫に夜泣きのつらさを訴えると「昼間寝れば?」と言われ、育児のストレスをこぼすと「俺は外で働いてる」と返される。
そして「俺が家にいないほうが家事がラクだろう?」と、毎週末のように飲みに行く始末…。
「男性は言わなきゃわからないよ」と友人に言われたこともありました。
でも、当時の私にはそれができなかった。反論されたり逆ギレされるのが怖くて、結局何も言わずにひとりで抱え込むしかありませんでした。
本当は、二人で子育てをしたかっただけなのに──。
どこかで「ひとりで頑張らなきゃ」と、また無理をしてしまう自分がいました。
そして育休が終わり、職場復帰をしてからは、さらに自分の負担が増えました。朝は保育園の準備、夜は家事と育児。「ちゃんとやらなきゃ」という気持ちだけが先走り、心はどんどん疲弊していきました。
子どもが生まれても夫との喧嘩は減らず、口論になるたびに浴びせられる暴言に傷つき、外では「いいパパ」を演じるその姿に、少しずつ心がついていかなくなりました。
そんな日々が続き、息子が3歳になる少し前、私は離婚という選択をしました。

決して簡単な決断ではありませんでしたが、あのときの私にとっては、“これ以上ここにいたら壊れてしまう”という、最後の心の声に従った結果だったのだと思います。
親子ふたり暮らしのはじまり、揺れる気持ち
二度目の離婚後、私と息子の二人暮らしが始まり、これからの不安と「頑張らなきゃ」という気持ちが入り混じった時間が流れていました。
「パパとママは喧嘩して、仲直りできなくなってしまったの。だから今日からママとふたりでこの家に住むんだよ。」私はそう息子に伝えました。
元夫への不満は数えきれないほどあったけれど、どんな事情があったとしても、息子の前で相手を悪く言うことだけはしない。 それだけは自分に誓ったことでした。

なぜなら、元夫の悪口を言うことは、息子の存在を否定するようで怖かったから。そしてなにより、その人を選んだ自分自身を責めることになってしまいそうだったから。
けれど今思えば、その決意があまりにも強すぎて、自分自身の本音にも蓋をしてしまっていたのかもしれません。
周囲の人たちは、前の夫との関係や家庭の内情を知っているわけではありません。 だからこそ、たとえば「息子くんがかわいそう」といった言葉が耳に入るたびに、私は自分を責めるようになっていきました。
「あの人を選んだのは私なんだから…」
「もっと我慢するべきだったのかも…」
本当は私もたくさん傷ついていたはずなのに…。
息子のために元夫を悪く言わないと思っていたけれど、離婚という選択をしたことに、私はずっと罪悪感を抱いていたのだと思います。
言えなかった「ごめんね」の気持ち
そして何より、父親と突然離れ離れになった息子に対して、「寂しい思いをさせてしまったのではないか」という申し訳なさが、心の奥にいつもありました。
私自身も幼いころ、たくさんの寂しさを我慢してきたからこそ、「息子にはそんな思いをさせたくなかったのに…」という、後悔のような申し訳ないような気持ちがこみ上げてきました。
けれど、息子は一度も「寂しい」とは言わなかった。「パパに会いたい」と言ったことも、なかった。だから私は、彼がそこまで寂しさを感じていないんだと思い込んでいました。
でも今振り返ると、あの子なりに状況を察して、言わずにいただけだったのかもしれない…と、あとになってから感じたことがあります。
きっと息子も、私と同じように寂しさを我慢していたのかもしれない。

そう思うと、今でも胸が苦しくなります。
そんなふうに、息子に対して「急にこんなことになってしまって、ごめんね」と謝りたかった気持ちも、実は私の中にありました。
でも、その一言がどうしても言えなかったのです。
なぜなら、私は母に「ちえこには寂しい思いをさせてしまって、申し訳ないと思ってる」と、ずっと言われ続けてきたから。
私が大人になり家庭を持ってからも、その謝罪は繰り返されました。母はただ、過去のことを謝りたかっただけなのかもしれません。
でも私にとって、母からの謝罪ほど重たく感じるものはありませんでした。
「申し訳ないと思っている」そう言われるたびに、なんとも言えない気持ちになるんです。「私も寂しかったよ」と正直に返すこともできず、「もう大丈夫だよ」というのが精いっぱい。
でも本当は、謝られるたびに、自分の感情が見えなくなるような、そんな息苦しさを感じていたのかもしれません。
だから私は、息子に「ごめんね」と言えなかった。それを口にした瞬間、彼の寂しさに向き合わなければならなくなるのが怖かったのだと思います。
彼が「パパに会いたい」と言わない姿を見て、「寂しくないのかもしれない」と自分に言い聞かせていた。けれど今思えば、それはただ、私自身が息子の寂しさから目を背けていただけなのかもしれません。
「ごめんね」と言えなかったあのときの私。その選択が正しかったのかどうか、今でも正直わかりません。
わかってほしかったのに、わかってもらえなかった気持ち
今振り返ると、私自身も、本当は誰かに「大変だったね」「よくここまで頑張ってきたね」って言ってほしかったのかもしれません。

私が何を経験し、何を思い離婚に至ったのか。誰かに聞いてほしかったし、ただ、わかってほしかったんだと思います。
だって私は、そんなに強い人間ではなかったから。
「親のわがままで子どもに寂しい思いをさせた」
「最低の母親」
ずっと、周りがそう思っているんじゃないかと感じていました。
でも、実はあのとき、私自身が一番強く自分にそう言い聞かせていたのかもしれません。友人から「もっと早く相談してくれたらよかったのに…」そう言われたとき、「やっぱり私の決断はわがままだったんだ」と、とても苦しくなりました。
私は、忍耐力のない人間なんだ。自分のことしか考えられない母親なんだ…。
そうやって、自分を責めることでしか、当時はその場に立っていることができなかったのだと思います。
“幸せになってはいけない”という呪縛
私の中には、ずっと“幸せになってはいけない”という思いがありました。
それは、子どもの頃から母の苦労を見てきたこと、そして「自分は幸せになれる人間じゃない」と思い込んできたことが、根底にあったのかもしれません。
「不貞の子である私は、幸せになってはいけない」
──そんなふうに、自分で自分の価値を決めつけていました。
“平凡でいられればそれでいい”
“波風を立てず、ただ日々をこなせれば十分”
そうやって、心のどこかで「私は幸せを望んではいけない」と思い込みながら生きてきたのだと思います。
だからこそ、再婚なんて考えることさえ、いけないことのように感じていました。母からも「あなたはもう母親なんだから、まずは子どもの幸せよ」と言われ、それが“正解”なのだと信じて疑いませんでした。
けれどあるとき、私と息子の過去を何ひとつ否定せず、ただ静かに話を聴いてくれる人に出会いました。
誰にも言えなかった気持ちを責めず、受け取ってくれる人。そして、ありのままの私と息子をまるごと受け入れてくれた人。それが、今の夫です。
彼は、息子のことを本当によく可愛いがってくれました。

子どもに慣れているわけではないのに、彼なりに一生懸命向き合ってくれた。そして、私のことも、まっすぐに支えてくれました。
彼の家族もまた、離婚歴があり子どもを連れている私たちを、何も聞かずに温かく迎え入れてくれました。
それなのに私は、「周りにどう思われるか」ばかりを気にして、ずっと彼からの申し出を断り続けていました。
二度目の結婚のとき、私は誰にも相談せず自分の気持ちだけで決断し、最終的に離婚という形で終わりました。
だからこそ今回は、ひとりで判断してはいけない──そう強く思っていたのです。
何よりも、息子の気持ちを最優先にしたかった。彼が夫に懐いているかどうか、どう感じているのかを確かめたり、信頼できる友人夫婦にも紹介し、「やめたほうがいい」と言われたら再婚はしないと決めていました。
今思えば、当時の私は、「彼とどうしたいか」という自分の気持ちを、一度もちゃんと見つめていなかったのかもしれません。
“彼とならきっと…”と思う私もいれば、“またうまくいかなかったらどうしよう…”と怯える私もいた。
自分の感覚を信じることが怖くて、安心材料をいくつも集めないと決心できなかったのだと思います。
それでも──私は彼と家族になることを選びました。
そんなある日、友人たちに再婚を報告したとき、「次に離婚したら、ご祝儀返してもらわなくちゃ」と、冗談交じりに言われたことがありました。
もちろん、ほんの軽い冗談だったのだと思います。けれど、当時の私には笑えませんでした。だから私は、思わずこう返してしまったのです。
「次に離婚したときは地元を出て、みんなの前からいなくなるから安心して」と。
本当は三度目の結婚で、誰かをまたがっかりさせたくなかった。けれど自分を信じられなかった私は、この先また失敗するかもしれないと怯えていました。
だから、“何かあったら私がいなくなればいい”──どこかで、そう思っていたのだと思います。
今思えば、友人の何気ない言葉でさえも、私は刃物に変えて自分の心に突き刺していました。
そしてあの頃の私は、「幸せになりたい」なんて思ってはいけないと、自分に言い聞かせていた。
「三度目の結婚なんて、誰も喜んでくれない。呆れられるだけ」そう思い込んで自分にブレーキをかけていたのです。
でも本当は──ただ“幸せになってもいい”と、自分に言ってあげたかったのかもしれません。
幸せなはずなのに、心はざわついていた
再婚して、今の家に引っ越してきた頃から、私はなぜか夫に対してイライラすることが増えていきました。
彼は変わらず優しく、息子のことも本当に大切にしてくれていた。私も彼を尊敬していたし感謝だってしていた。
それなのに、日常の中でつい八つ当たりしたり、嫌味を言ってしまったり。どうしてもイライラが止まらない自分がいました。

「結婚したら優しくなくなっちゃったね」
夫からそう言われたとき、私はショックを受けながらも、不貞腐れることしかできませんでした。理由もわからないまま、心の中はざわざわして、自分でもどうしたらいいのかわからなかった。
「彼にイライラするのは甘えてるからでしょ」そう言われたこともありました。
でも当時は「私は彼に甘えてなんかいない」「彼が原因」と本気で思っていました。でも今ならわかります。
「何を言っても、何をしても、彼はきっと離れていかない」
──そんな安心感が心のどこかにいつもあったんです。
夫の優しさに、どっぷりと甘えていた。それはまるで、幼い子どもが母親に向けるような、“無意識の甘え”に近いものだったのかもしれません。
さらに彼は、人の悪口を言わず、誰にでも誠実で、相手の良いところも悪いところもまるごと受け止められる人でした。そして、自分の両親も私の母も大切にしてくれる。
私が持っていないものを、すべて持っている人。だからこそ尊敬していたけれど、同時に、心の奥ではどうしようもない苦しさを感じていました。
今ならそれが“劣等感”だったのだとわかります。
けれど当時の私は、その正体にまったく気づけず、ただ理由もわからないまま怒りをぶつけ、彼の言うことを否定していたのです。
息子との関わりも、少しずつ崩れていった…
そんなふうに、自分の感情がうまくコントロールできなくなっていく中で、子育ての中でも少しずつ、自分の変化に悩まされていきました。
息子が小学生になった頃から、言葉遣いや生活リズム、準備の遅さ、習い事への取り組み方など──何から何までイライラしてしまう場面が増えていきました。
「なんで何度言ってもわからないの!?」
「前にも言ったよね!?」

そんな言葉をきっかけに、怒りがブワッとあふれ出して止まらなくなるのです。
当時の私は、子どもは親の言うことを聞くものだと信じていました。だから、息子が話を聞かないたびに「ママの言うことを聞きなさい!」と怒鳴り、息子が泣いて謝るまで止まれなかったのです。
どうしてこんなにも言うことが聞けないのか、理解ができなかった。あの頃の私は、“私がイライラするのは息子のせい”と思い込んでいました。
夫に相談しても返ってくるのは、「子どもなんてそんなもんでしょ」という言葉。そのたびに私は、「この人は息子と血のつながりがないから冷静でいられるんだ」と感じ、本気でそう思い込んでいました。
「息子にイラつかない旦那のことが理解できない。実の親子じゃないからイライラしないんだよね?」そう友人に話したときの相手の引いた表情が忘れられません。
その瞬間、「私、おかしいのかもしれない…」と思い、それ以来その友人に相談できなくなりました。
さらに、母からの言葉も私を追い詰めました。母が我が家に遊びに来た時、息子がわがままを言うたびに
「ちえこはわがままなんて言わなかったわよ。育てやすい子だったもの」
「男の子って、こんなに手がかかるの?」
そう言われるたび、私の子育てを否定されているように感じました。
今までにないこの感情が何なのかもわからないまま、どう育てていけばいいのか不安ばかりが膨らんでいき、気づけば“母親である自分”に少しずつ自信を失っていったのです。
誰にもわかってもらえない
本当は、誰かに相談したかった。でも、どこに相談していいのかが全くわかりませんでした。
息子が保育園の頃は、市の保健師さんに電話で相談できたけれど、小学生になると、途端に“相談窓口”が見えなくなったのです。勇気を出して電話をしても、
「ここは発達に関する窓口なので…」
「小学生以上のそういった相談はここでは…」
そんなふうにたらい回しにされ、結局どこにも受け止めてもらえなかった。
「私のこの気持ちを、聞いてくれる場所はないの?」
「こんなふうになってしまった私を、誰か助けて…」
そう思えば思うほど、どんどん苦しくなっていきました。周りにも相談できる人はいませんでした。

「人はいつか裏切るもの」そう思い込んでいた私は、ママ友という存在すらも怖くて、「ママ友なんて作らずに一人でいるほうが楽なんだ」と、ずっと自分に言い聞かせて生きてきました。
家では息子に怒鳴ってしまう私を、誰にも知られたくなかった。だから外では必死に“優しいお母さん”を演じていたんです。

そんな中で、こんな出来事がありました。
息子が小学2年生の終わり、授業参観で「お母さんへの手紙」を読む時間がありました。息子が口にしたのは、「いつも僕のことを怒ってくれてありがとう」という言葉。
その瞬間、教室の空気が止まった気がしました。「優しくしてくれてありがとう」と伝える他の子どもたちの中で、私だけが、胸の奥を鋭くえぐられたような感覚になったのです。
まるで、みんなの前で“母親としての自分の現実”が暴かれてしまったようで、逃げ出したいほどの恥ずかしさと恐怖を感じました。今思い出しても胸が締め付けられます。
それ以外にも、テレビやお風呂のドアを壊してしまったり、息子が私との言い合いのあと姿を消して、警察に通報されたこともありました。
留守番をしていた夫が、私からの連絡を受けて私に何の相談もなく警察に電話をしたのです。
しかも、その場所は息子が卒園した保育園であり、ピアノのレッスン会場でもありました。あっという間に保育園関係者の耳にも入り、私はまるで“母親失格”の烙印を押されたような気持ちになりました。
恥ずかしさと怒りで全身が震え、「どうして警察に電話する前に私に相談してくれなかったの」と言葉にできないまま、夫も、警察も誰もが敵に見えました。
警察犬まで出動しかけたあのとき、唯一、訓練士の方が「子どもに怒っちゃうこと、あるよね。俺もあるよ」と声をかけてくれて、張り詰めていた心が少しだけ緩んだのを覚えています。
でもそれ以外のすべてが、私にとっては屈辱でした。 何もできなかった自分への無力感、そして「母親として見放されたような痛み」が、あのときの私の心を深くえぐっていきました。
こんな数えきれない出来事の一つひとつが、「こんな姿を誰にも知られてはいけない」という思いを、ますます強くしていきました。
こうして私は、自分を責め、孤独の中に閉じこもっていったのです。
息子の習い事をきっかけに壊れていった私
子育ての中で、私の歯車が狂い始めたのは「習い事」でした。息子は年長から小6まではピアノを、小1から中2までダンスを習っていました。
息子が「ピアノを習いたい」と言い出したのは保育園の頃。自分から強く「やりたい」と言うことが少なかった息子が口にした言葉が、私はとても嬉しかったのを覚えています。
先生との相性も悪くなく、引っ越しの際にはピアノも購入し環境を整えて応援していました。
けれど、小学生になると状況が変わりました。学校から帰るとYouTubeやゲームばかりで、練習をしない日が増えていったのです。
最初は「練習しないの?」と穏やかに声をかけられていた私も、返ってくるのは反発や茶化すような態度。そうなったとき、心の中で何かがブチッと切れ、怒りが爆発するようになりました。
「早く練習しなさい!」は次第に「早くやれよ!」に変わり、時には手を挙げたり蹴ったりすることもありました。
発表会やコンクール前は特に感情のコントロールができず、泣いて嫌がる息子を“私がOKと思えるまで”椅子から離れさせませんでした。

家の中は地獄のような空気になっていたのに、当時の私はそのことにすら気づいていなかった。ただ「ピアノが上手になるためなんだ」と思い込み、息子の気持ちに目を向ける余裕なんて一切なかったのです。
さらには、夫も交えて“家族会議”という名の尋問の場を何度も開きました。
「やる気がないなら今月でやめなさい」そう迫る私たちの言葉は、息子にとってただの押しつけでしかなかったと思います。
本来、夫は息子の習い事に口を出すタイプではありませんでした。それなのに、練習しない息子と私のやり取りを見かねて、いつしか一緒に“会議”に加わるようになっていったのです。
今思えば、そんな優しい夫をも、私は自分の思い通りに動かそうとしていたのだと思います。息子だけでなく、家族全体を“私の正しさ”で支配していたのかもしれません。
あの頃の私は、息子にぶつけていた怒りの正体を全くわかっていませんでした。
でも実は当時、私が息子に向けてぶつけていた言葉の中に、その答えがしっかり表れていたんだと、今ならわかります。それは、心の奥にずっと隠れていた“幼い私の未消化の思い”だったんです。
「私はやりたいことをやらせてもらえなかったのに」
「ピアノまで買ってもらってなんで真剣にやらないの!?」
無意識に口にしていたその言葉は、私の中に存在する、“幼いちーちゃん”の心の叫びでした。

私がやりたい習い事は、結局やらせてもらえない。欲しいものだっていつも我慢させられてた…
さまざまな理由の中で、私の希望はほとんど叶えてもらえなかった。そんな癒されないまま心の奥に残ったインナーチャイルドの傷。息子の姿をみるたびに、幼い私の記憶を何度も呼び起こし、怒りに変えてしまっていたのです。
子どもは親の心を映し出す鏡
息子のもうひとつの習い事「ダンス」でも、私は大きく揺さぶられていきました。
ダンスを始めたきっかけは、私が好きなアーティストのダンスに憧れ、「スポーツ代わりにどうかな」と軽い気持ちで始めさせたこと。息子は「やりたい!」と即決で、最初のスタジオには三年間通いました。
けれど、もっと合う環境があるのではと考えた私は、小4の夏に別のスタジオを薦め、息子は転入を決めました。そこは男の子も多く、息子も最初は前向きに決めたのです。
ところが──そこから息子に変化が訪れたのです。
どれだけ月日が経っても、同じクラスの子どもたちと打ち解けない。休憩時間も周りが笑い合う輪に加わらず、一人で立ち尽くす息子。
最初は「そのうち慣れるだろう」と見守っていた私も、だんだん苛立ちを抑えられなくなりました。
「どうして自分から声をかけないの?」
「話しかけられたら、ちゃんと答えなきゃダメでしょ!」
と、帰りの車内で毎回責め立てました。息子は黙り込み、車内は重苦しい空気に包まれる。それでも私は引き下がらず、問い詰めるように繰り返していたのです。
イライラし過ぎて道を間違えたこともあるほど。
あの頃の私は、息子が頑張っている姿よりも、“人とうまくやれているか”ばかりを気にしていました。そのうち怒りの矛先は息子だけでなく周囲にも向かっていきました。
「新しい子が入ってきたら、普通は周りが声をかけるでしょ!」
「他の子の親は何も思わないの?」
「先生だって息子を輪に入れてくれたらいいのに!」
口には出さなかったけれど、環境全体を責めるような気持ちでいっぱいでした。
息子がダンスの出来を嬉しそうに話してきても、私は「みんなみたいに上手になれるといいね」なんて、突き放すようなことしか言えませんでした。
「頑張ったね」なんて、褒めてあげたことは一度もなかったかもしれません…。息子の努力を喜ぶことよりも、「周りと比べてどうか」ばかりを見てしまっていたんです。
「みんなは楽しそうに友達と話しているのに、どうして息子だけ…」
「他の子はもっと上手に踊れているのに…」
でも実は、苛立っていたのは、息子にではなく“自分自身”に向けてだったのかもしれません。待ち時間、他のお母さんたちが輪になって楽しそうに話しているのに、そこに入れない私。

「また浮いてる…」
「私だけ仲間外れ…」
そんな疎外感ばかり感じていました。もちろん、その中に自分から入っていく勇気もなかった。
だからこそ、息子の姿に自分を重ねてしまい、強く言わずにはいられなかったのだと思います。「友達をつくりなさい」と迫っていたのは息子のためではなく、“人とうまく関われない自分”を見せられているようで耐えられなかったから。
今振り返ると──
私が息子を通して見ていたのは「息子」ではなく「自分自身」でした。子どもは親の心を映し出す鏡。まさに、あの頃の私はそれを突きつけられていたのだと思います。
新しい職場での私
今の夫との再婚を機に、私は10年ほど勤めていた会社を退職し、新しく飲食店でパートスタッフとして働き始めました。
人づきあいや会話は決して得意ではなかった私ですが、不思議と“接客”の仕事だけは昔からやりがいを感じることが多く、お客様から「ありがとう」と声をかけられるたびに、心が満たされていくようでした。
嫌われないように人に気を遣って生きてきた私にとって、そのスキルはそのまま仕事に活かされていたのだと思います。
ただ実際には、私は“頑張り屋の仮面”をかぶったまま働いていました。もちろん、当時はそのことにまったく気づいていませんでした。
スタッフから「ちえさんて話しやすいですよね」「ちえさんとシフトが一緒だと安心します」と言われるたび、私は嬉しくなり、その言葉がやる気のエネルギーに変わっていきました。
店長とは歳も近く、スタッフの中では一番話しやすい存在。仕事に慣れるにつれ、私の役割も増え、頼られることがどんどん励みになっていきました。

職場の雰囲気もよく、休みの日には家族でお店に食事に行くこともありました。そのたびに、店長やスタッフのみんなが夫や息子にも親切にしてくれて、そんな人たちと一緒に働けることが本当に嬉しかったんです。
けれど──
新しいスタッフが入ってくるたびに、私はなぜか心の奥がざわついていました。
当時は理由がわからなかったけれど、今思えば、新しい人が入ることで、自分の居場所がなくなってしまうような怖さを感じていたのだと思います。
みんなの視線や気持ちがその人に向かうたびに、私はどこか不安になっていました。まるで、「自分の立場が危うくなる」「私はもう必要とされなくなる」──そんな感覚に襲われていたのです。
今になって思うと、それは“見捨てられ不安”が影響していたのかもしれません。
「誰かにとって特別でいなければ、愛されない」
「必要とされなければ、ここにいてはいけない」
そんな思い込みが、私の中にずっとあったのだと思います。
そして、混雑時などに店長の機嫌が悪くなると、そのたびに私は胸がざわつきました。
「私のせいかな」「厨房の空気を悪くしないようにしなくちゃ」と、すぐに自分を責めてしまう。いつも誰かの機嫌をうかがい、ピリついた空気をなんとかしようと頑張っていました。
帰宅するころにはぐったりと疲れ切っていて、大人数対応で忙しかった夜には、熱を出して寝込んでしまったこともあるほどです。
今思えば、こうした働き方は飲食店に限ったことではありませんでした。
社会人になったころから、私は職場では常に「周りから嫌われないように」と無意識のうちに必死になっていたのです。
だから、その場の空気を乱さないように人の機嫌をうかがい、誰かのご機嫌取りをすることも多かった。
さらに、どの職場でも強く出ていたのは「私が一番できる人でありたい」という強い承認欲求でした。誰よりも早く仕事を覚え、「できる私」「頼りになる私」でいることに必死でした。
当時はそのことに気づかず、「すごいね」「頼りになるね」と言われることが、自分の存在を認められたように感じていたのです。
けれど、職場で認められる一方で、嫉妬されたり嫌味を言われたりすることもありました。
そんなとき私は、表面上は「いえいえ、私なんて」と謙虚に振る舞っていましたが、心の中では「頑張ってきた自分は間違っていたのかな」と落ち込みつつ、「いや、私は間違っていない」という反発心も湧き上がってくる。
結局は「これをきっかけに嫌われてしまうんじゃないか」という不安が消えず、「認められたい私」と「嫌われたくない私」の間をいつも行ったり来たりして、しんどさを抱えていたのだと思います。
過去の私はどの職場でも、いつも“頑張り屋の仮面”をかぶって、自分をすり減らしながら働いていたのだと思います。そんな日々の中で、少しずつ「本当の自分を隠して生きること」にも、慣れていってしまったのかもしれません。
職場で“できる私”を演じるように、過去の私にも、誰にも見せられない「仮面」がありました。
過去を偽る私
そんな日々の中で、心に深く残っている出来事があります。
働き始めて間もないころ、休憩中の雑談でスタッフのひとりがこんなことを言いました。
「俺、バツ1の女性なら全然いいと思うけど、バツ2はちょっと人間性疑っちゃうな」
その場では、まだ私が二度の離婚歴があることを誰にも話していませんでした。母から「バツ2なんて恥ずかしい」と言われ続けてきた私は、友人以外にそれを打ち明ける勇気が持てなかったのです。
だから、この言葉を耳にした瞬間、胸の奥が凍りつくような感覚になりました。けれどその場では何も言えず、ただ笑ってごまかすしかありませんでした。
「実は私も…」なんて言えるはずがなかった。もし過去を話してしまったら軽蔑されてしまうんじゃないか──そんな怖さでいっぱいだったんです。
私は、「一度目の離婚をなかったことにしよう」と心の中で決めました。

でもその選択は、時間が経つにつれて、私をどんどん苦しめることになりました。職場だけでなく、息子の学校や習い事で出会うママたちに対しても、ずっと“隠し続けなければならない自分”がいるようになったからです。
人によって「話す」「話さない」を分けることで、いつか矛盾が生まれるかもしれない──それが怖くて、再婚後に出会った人には「一度目の離婚」のことは一切話さないと、心に決めていました。
けれど心のどこかでは、すべてを打ち明けて、「こんな私ごと受け止めてほしい」と願っている自分もいました。
それは、子どものころからずっと手放せずにいた“本当の願い”だったのだと思います。過去を隠すことで安心を得ようとしながら、同時に「本当の私を知ってほしい」という気持ちを消しきれなかった。
心の中で、「隠したい私」と「わかってほしい私」が、いつも引っ張り合っていたように思います。
そうして私はまたひとつ、“仮面の私”を強くしていったのです。
けれど──その仮面の奥では、少しずつ心が擦り切れていきました。気づいたときにはもう、どうやって本当の自分に戻ればいいのか、わからなくなっていたのです。
孤独の世界へまっしぐらの苦しい日々
二度の離婚歴を隠したまま、「本当の私」をさらけ出せずに過ごしていました。それでも、職場という居場所があったからこそ、なんとか日常を保てていたのだと思います。
そんな中、世の中を大きく揺るがしたコロナの流行。
当時働いていた飲食店も影響を受け、ついに閉店することになりました。「好きだった場所」がなくなってしまった寂しさと共に専業主婦になった私は、自分の時間が増えたことで、子育てと正面から向き合わざるを得なくなったのです。
その頃の私は、息子への怒りが止められない日々を過ごしていました。息子の成長とともに怒りのスイッチがどんどん増えていき、一度それが入ってしまうと、怒鳴らずにはいられない。やめたいのにやめられない。
何度か手が出てしまったこともありました。常にではないけれど、そのたびに私は深い後悔に襲われました。だからこそ、「取り返しのつかないことだけはしてはいけない」と頭のどこかで必死に自分を抑えていたのです。
それでも、言葉で息子を深く傷つけ続けてしまうことをやめられない。
高学年になる頃には、「痛めつけたい」という衝動にまで駆られるようになり、頭の中では最悪の光景を想像しながら暴言をぶつける。そして、冷静になれば激しい自己嫌悪で押しつぶされる…そんな日々でした。

テレビやネットで虐待のニュースを見ると「次に名前が載るのは私かもしれない」と思い、どんどん自分のことが怖くなっていきました。
明らかに自分の中で感情のコントロールがきかなくなっているのはわかる。でも、なぜそうなってしまうのかが全くわからない…そんな日々を送っていると、頭の中がどうにかなってしまいそうになることもありました。
さらに、ダンスの送り迎えで他のママたちが、わが子と自然に触れあっている場面を目にすると、息子のスキンシップに嫌悪感を感じる自分は「母としてどこかおかしいのではないか」と不安になっていきました。
「母親失格」
「そもそも母親になる資格なんてなかったんだ」
「夫にも優しくできないダメな妻」
「結婚すら向いていないダメな人間」
「私の人生なんてこんなもん」
当時の私は、こんな言葉を毎日自分に向けていたのです。息子の発達の特性を疑っていたこともありましたが、最終的に刃を向けたのは自分の人間性でした。
だからこそ、夫や子育て中の友人に話すことなんてできませんでした。「母親として最低だね」そう言われたら、私は本当に壊れてしまう気がしたから。
そんな中で、唯一打ち明けられたのが当時独身だった友人でした。
彼女は私の話を「少し早い更年期じゃない?」「持病の薬の副作用とか?」と軽やかに受け止めてくれました。病院で調べてもらったり、漢方を試したりもしましたが改善はなく…。
そこから、私はネットで必死に「母親 怒るのをやめられない」「子どもを愛せない」などを検索し始めます。自分の怒りの正体を探す日々がここから始まったのです。
運命の出会い
「このままでは、きっと私は壊れてしまう。でも、どうすればいいのかもわからなかった。」
そんなとき、ふと思いついたのは心療内科でした。自宅から通える範囲の病院を探し、ネット予約を試みました。

けれど画面に出てきたのは「年内の予約はいっぱいです」の文字。希望を失いかけ途方に暮れていたときに偶然出会ったのが、ポポラス代表の直子さん、そして『心の土台構築実践プログラム』でした。
直子さんのプロフィールを初めて読んだとき、「私と同じように子どもを愛せずに苦しんでいた人がいるんだ」という嬉しさと同時に
『毒親』という言葉に酷くショックを受けたのを覚えています。まさか自分が、世間でよく耳にする『毒親』だなんて思いもしなかったから。
でもどこかで、“この人なら、私の思いをわかってくれるかもしれない”そんな思いと同時に
「ここがダメだったら、もうこの先の人生は諦めよう」そんな直感のような感覚が、強く心に響いたのです。
カウンセリングを受けたこともない。子育て本もセミナーも調べたことすらない。そんな私が、このときだけは不思議なくらいハッキリと「ここしかない」と感じました。
今振り返ると、あの瞬間が私にとっての“運命の出会い”だったのだと思います。
すぐにお試しカウンセリングを申し込んだ私。
ZOOMで初めてお会いしたときは、あまりに緊張しすぎて何を話したのかはほとんど覚えていません。
ただ「幼少期の家庭環境が子育てに大きく影響している」という直子さんの言葉だけは、かすかに心に残っています。
それでも、今まで自分のことでそんなにお金をかけたことがなかった私にとって、即決することはできませんでした。
一度夫に相談したときも、「こんなことにお金を使うなんておかしいって思う人もいると思うけど…」と、不安を口にした私に、夫は優しくこう言いました。
「何にお金を使うかは人それぞれだよ。自分に必要だと思うならやってみたら?」
本当は後押しの言葉だったはずなのに、当時の私には「そんなことくらい、自分で決めなよ」と責められているように聞こえてしまって…。そのあと少し喧嘩になったのを覚えています。
それでも、心の奥では「やっぱり受けてみたい」という気持ちが消えなかった。母として変われるチャンスは今しかない。だからこそ、勇気を出して申し込む決意をしたのです。
自分の気持ちがわからない
実践プログラムは、私が想像していた“ただ話を聞いてもらう”ようなカウンセリングとは全く違いました。
心の仕組みを学びながら、生きていくために欠かせない“心の土台”を、カウンセラーの直子さんと一緒に育てていく──そんな悩みの根本から向き合うプログラムだったのです。
「回数を重ねれば、私は感情に振り回されない“優しいママ”になれるはず」
そう信じていた私でしたが、いざ始まってみると、現実は想像以上に厳しいものでした。
これまで子育て本もセミナーもほとんど触れたことのなかった私にとって、学ぶだけでも精いっぱい。特に最初につまずいたのは、「自分の本音を見つめること」でした。
どんなときに怒りが湧くのか、その裏にどんな“本当の気持ち”が隠れているのか──。
自分を観察しても何も見えてこない。直子さんに「どう感じますか?」と聞かれても、わからない。そんな自分に何度も落ち込みました。
けれど、直子さんはいつも「今はそう感じるんですね」と、どんな私の言葉も受け止めてくれました。

誰かに自分の気持ちを“まるごと受け止めてもらう”という経験が、私にはほとんどありませんでした。だからこそ、その時間は、初めて味わうような温かさと安心感でいっぱいだったのです。
実は、当初の私は人を信じることがとても怖くて、直子さんに対してもどこか警戒心を持っていました。
「いつもと少し違う?」と感じただけで、つい顔色をうかがってしまう。そんな自分を隠しながら、「正解を言わなきゃ」と頑張ってしまう。
今思えば、あの頃の私はまだ“心の鎧”を脱げずにいたのだと思います。
それでも直子さんは、そんな私のペースに合わせながら、ゆっくり心をほぐしてくれました。
そのきっかけになったのが、途中から追加したLINEサポートでした。日常の中で心が大きく揺れたとき、その思いをLINEで言葉にすると、直子さんはいつも丁寧に受け止め言葉を返してくれました。
そのやり取りの積み重ねが、少しずつ私にとって大きな支えになっていったように思います。
少しずつ見えてきたもの
個別カウンセリングの中で、私はいつも息子の話ばかりしていました。
学校での交友関係や、ダンスでの人間関係。家でだらけている姿を見ると、どうしても口を出さずにはいられなかった。
でもなぜ、私はこんなにも息子にイライラしてしまうのか──。
直子さんに心の仕組みを教えてもらいながら、自分を観察する練習を、ひたすら繰り返していきました。その中で気づいたのは、本来は息子の問題であるのに、私は息子と一体化してしまっていたということ。
心の境界線があいまいで、息子の出来事を自分のことのように受け取っていたんです。そして、息子への怒りの裏には、実は“自分自身の不安”が深く関係していることも知りました。
まずは知識を学び、それを日常生活の中で自分ごととして落とし込んでいくのですが──これがまぁ、難しいこと。
今までは、自分の中にある不安を、息子にどうにかしてもらおうとして、怒りに変えてぶつけてきた。それを「自分の感情は自分でお世話していく」という形に変えていく。
それは、想像以上に苦しい作業で、どうにもならない夜には、お風呂で一人泣いたこともありました。

変わりたい私と変わりたくない私
そんなある日、中学進学を控えた息子が、不安そうな顔で言いました。
「母ちゃん、俺のこと好き?」
「母ちゃん、ぎゅってして」
何度も繰り返されるその言葉に、私はどうしても応えられなかった。「好きだよ」と応えるだけなのに、喉の奥で言葉が止まってしまう。やっとの思いでハグをしても、ぎゅっと力を込めることができない。
「カウンセリングを受けているのに、なんでこんなこともできないの?」そう思うたびに、自分のことが嫌になっていきました。
でも今なら、あのときの私の気持ちがわかります。何十年もかけて身につけてきた“心の癖”を手放すことは本当はとても怖いことだったんです。
そして、母から愛情表現をしてもらったことのない私は、息子の愛し方さえもわからなかった。
私の心の奥では、「変わりたい私」と「変わりたくない私」が、いつも静かに戦っていました。それでも、やっぱり変わりたい──。その一心で、私は必死に自分と向き合いました。
苦しくて逃げ出したい気持ちの中、何度も自分を見つめ直していく日々。できないことも多く、何度も立ち止まりながら、それでも少しずつ“変化の芽”のようなものを感じ始めていきました。
そんな私を、直子さんはいつも信じて見守ってくれていました。
できなかったことが少しずつできるようになるたびに、「頑張りましたね」と、まるで母のように優しく喜んでくれた。その言葉が、どれほど私の心を温かくしてくれたか…。
私は、個別カウンセリングの中で、“アダルトチルドレン”という言葉を学びました。「私もそうかもしれない」と気づいたとき、不思議と少しだけ心が軽くなったのを覚えています。

ずっと「私の性格が悪いから」「母親として欠陥があるから」と思い込んでいたけれど、そうではなく、過去の環境で身につけた“心の癖”だったんだ──。
息子への怒りも、私の人格のせいではなく、傷ついた心が“これ以上傷つかないように”守ろうとしていた反応だった。
それを知ったとき、私は初めて、自分をほんの少しだけ責めずにいられた気がします。
けれど同時に、心の奥にはまだ、触れるのが怖い感情や、向き合いきれない痛みがたくさん残っていました。表面は整っていくように見えても、どこかで“まだ何かが足りない”──そんな感覚が消えなかったのです。
ちょうどその頃、直子さんが新しく「グループカウンセリング」を始められることを知りました。再受講を考えていた私は、興味を惹かれながらも心の中ではずっと迷っていました。
なぜなら、私は昔から“グループ”という場がとても苦手だったから。
疎外感を感じやすい、人前で話すのが苦手、知らない人に自分を見せるのが怖い…。そして何より、「ちゃんとできなかったらどう思われるだろう」という不安がとにかく強く、その一歩がどうしても怖かったのです。
でも、どこかでわかっていました。本当の意味で変わるためには、もう一段深く自分と向き合う必要がある。そして、何よりも──直子さんがいてくれるならきっと大丈夫。
そう感じた私は、怖さを抱えたまま、グループカウンセリングに申し込むことを決めました。
今まで見えてこなかった私との出会い
グループカウンセリングが始まってから、私は今まで見えてこなかった“自分”を見ていくことになりました。
個別カウンセリングでは自分と向き合うことが中心でしたが、グループでは“他の人を通して自分を知る”という体験の連続でした。
そこから、私の中の「まだ見ぬ痛み」や「抑えこんできた感情」が少しずつ姿を現していったのです。
本来、人の数だけ感情の表し方や感じ方、言葉の伝え方がある。
今の私なら、それも自然なことだとわかります。でも当時の私にとって、人との“違い”ほど苦しいものはありませんでした。
なぜ、こんなにも苦しかったのか。それは、子どもの頃からずっと「自分は人とは違う」「私は普通の子じゃない」と思い込んで生きてきたからだと思います。

周りの子のように“普通”でいられないことが、私にとっては何よりもつらいことでした。その背景には、家庭環境が大きく影響していたのだと思います。
だから、グループの中で「みんなのように感じられない」「同じように表現できない」自分を目の前にしたとき、心が壊れそうになるほどの痛みを感じていました。
「人と同じでなければいけない」そんな思い込みを握りしめていないと、私は“ここにいてはいけない”気がしていたのだと思います。
今なら、そのビリーフが私を守ってくれていたこともわかります。でも当時の私は、そこに気づく余裕もなく、ただ必死に“みんなに追いつこう”としていました。
グループカウンセリングの中で、誰かの話を聴きながら涙を流す人、自分の気持ちを整理して丁寧に話す人、ありのままをさらけ出して泣ける人──そんな姿を見るたびに、私は何度も自分を責めました。
「みんなのようにできない自分」
「みんなと同じように感じられない私」
その現実を突きつけられることが、何よりもつらかったのです。
自分にできないことを目の当たりにするたび、嫉妬と自己嫌悪がぐちゃぐちゃに混ざったような感情が込み上げてきたこともあります。
そんな黒い気持ちを抱く自分がどうしても許せなくて、そんな自分を見るのも、感じるのもつらかった。だからもう、グループカウンセリングをやめてしまいたい──そう思ったことも何度もありました。
今思えば、あの苦しさは“そんな自分を責め続けていたから”なんですよね。当時の私は、ただその気持ちに耐えることで精いっぱいだったのだと思います。
でも、やっぱり諦められなかった。きっと心の奥には、
「ここで変われなければ人生を諦めよう」そう決意して受講を決めた、あの時の私の気持ちがあったからだと思います。それでもやっぱり、グループの中で自分の心の内を見せることは、最後まで怖かったように思います。
私にとっての「ターニングポイント」
自分の中の黒さや醜さを見つめることは、怖くて苦しかった。でもその奥に、“誰かにわかってほしかった私”がいることに、少しずつ気づいていったんです。
そのきっかけになったのが、「インナーチャイルド」でした。
今まで見えなかった心の奥の“幼い私”。当時の私が、母に何を思っていたのか──。それを見ていく時間は、本当に苦しく、涙の止まらない日々でした。
「母に愛されたかった」
「ちゃんと大事にされたかった」
「どんなときも私だけを一番に見てほしかった」
長い時間、蓋をしてきた“幼いちーちゃん”の思いは、大人の私が感じるにはあまりに切なかったのだと思います。
この願いが満たされないまま大人になった私は、いつの間にかその反動として、嫉妬や羨ましさ、劣等感。
そして“自分なんて…”と思ってしまう気持ちを抱くようになっていました。見捨てられ不安も、見下され不安も、その根っこには「愛されたい私」の必死な叫びがあったのだと思います。

インナーチャイルドについて学んでいくうちに、私は少しずつ、「誰かの前で弱い自分を見せてもいいのかもしれない」と思えるようになっていきました。
けれど実際には、当時の私はまだ、人前で自分の気持ちを出すことが怖くてたまりませんでした。
直子さんの前でだけ、心を開ける──そんな状態がしばらく続いていました。
それでも、どんな私も否定せずに受け止めてもらう体験を重ねるうちに、少しずつ「感情を出しても大丈夫かもしれない」と思えるようになっていったんです。
あの頃、やっと息ができるようになった…そんな感覚だったように思います。
私たちは、子どもの頃に“ありのままの自分”を受け止めてもらうことで、少しずつ「自分を信じる力」を育てていきます。
でも、その経験が少ないまま大人になると、心の奥に“満たされなかった思い”が残ってしまう。
そしてその思いは、気づかないうちに“誰かにわかってほしい”“受け止めてほしい”という強い願いとして心の中に溜まっていきます。
やがて母親になったとき、子どもの“甘え”や“わがまま”といった姿がその願いを刺激し、抑え込んできた感情が“怒り”という形でブワッと顔を出してくるのです。
私が息子に対して痛めつけたくなるほどの怒りを感じていたのは、子どもの頃に満たされなかった“母への思い”が根っこにあったからでした。
振り返ると、私が息子に強い怒りを感じるのは、息子が甘えてきたとき、わがままを言ったとき、感情をもろにぶつけてきたとき、反抗されたとき──
まさに、幼いころの私がずっと我慢してきた“子どもらしさ”を見たときでした。
「私はずっと我慢してきたのに、なぜあなたはそれをやってみせるの?」
それは、幼いちーちゃんの心の奥からの叫びだったのでしょう。やっとそのことに気づけたとき、私の中で少しずつ息子への“わけのわからない怒り”が小さくなっていったように思います。
心の奥に沈んでいたひとつの思い
「愛されたかった」「大事にされたかった」「私だけを一番に見てほしかった」──
そんな思いを、直子さんに支えられながら少しずつ見つめていくうちに、もっと深く掘っていった先で出会ったのが、心の底に静かに沈んでいたひとつの思いでした。
「私は、生まれてこないほうがよかったのかもしれない」
という思い。この気づきのきっかけは、ふとした瞬間に湧き上がった
「生まれてきてよかった、と思えるようになりたい」──

そんな自分の願いに気づいたことでした。それは同時に、“生まれてきてよかったと思えない私”が、ずっと心の奥に居続けていたということでもありました。
実は、息子との関係の中でも、そのことを痛感していたんです。
息子との間に少しずつ心の境界線が築けるようになり、「息子のことは息子自身の問題」と分けて考えられるようにはなったのに、どんな姿の息子も“まるごと受け入れる”ということが、どうしてもできなかった。
そしてやっと気づいたんです。
「自分の存在を認められない私が、息子のありのままを受け入れられるはずがない」
そう思ったとき、心の奥でようやく“つながった”気がしたんです。
けれど同時に、私の心の傷は思っていたよりもずっと深く、「自分のダメなところも受け入れる」なんて到底できませんでした。
“自分は不貞の子である”と知ったあの日から、「不完全な自分では愛されない」という思い込みが、私の中に深く刷り込まれていたのです。
だからこそ、「不完全な自分」を受け入れることが怖かったのだと思います。
思えば、プログラムの終盤に気づいた“夫への劣等感”も、その根っこは同じ場所にありました。
夫を人として尊敬し、家族として共に生きてくれることに感謝していながら、どこかで“夫のようにできない自分”を責めていた。
その劣等感を見たくなくて、本心を怒りに変え、ときに見下すことで、心のバランスを保っていたのかもしれません。
「この人なら何を言っても大丈夫」という甘えの裏で、「いつか見捨てられたらどうしよう」という不安を私はずっと抱えていたんです。
ずっと私の中には“愛されたい私”が眠っていたのだと思います
母のこと
「生まれてきてよかった」と思えるようになりたい──そう感じ始めた頃、私は母に一度だけ尋ねたことがあります。
「私を産んで、後悔しなかったの?」と。母は少し驚いたように「後悔してないわよ」と答えました。
あのときの私は、母からその言葉を聞ければ「生まれてきてよかった」と思える気がしていたんです。
それなのに、何十年も聞けずにいた言葉をやっと勇気を出して聞いたのに、心はまったく満たされませんでした。
その瞬間、気づいたんです。
“私の心を本当に満たせるのは、母ではなく、私自身なんだ”と。
その少しあと、直子さんに言われた言葉があります。
「自分で自分に、“いていいんだよ”と言ってあげられることが、何よりの言葉なんですよ」
当時の私は、その言葉を聞いても「そうなんだ」と思うだけで、本当の意味までは理解できませんでした。
でも、自分の背景を少しずつ理解できるようになってきた今、あの言葉の本当のあたたかさが、やっと心で感じられるようになった気がします。
そして、母は私が再婚してからもよく「ちえこには幸せになってほしい」と言っていました。
なぜそんなにもその言葉を投げてくるのか、当時はまったくわからなくて、言われるたびに得体のしれない罪悪感が込み上げてきました。
今思うと、母の描いていた“理想の私の人生”を歩めていなかった私は、母の目に“幸せな娘”として映っていなかったのかもしれません。
でもあるとき、思い切ってこう伝えたことがあります。「私はもう幸せだから、お母さんも自分の人生を楽しんで」あのときは、“私は幸せだよ”と伝えたつもりでした。
けれど今振り返ると、そこには
「もう私を、あなたの罪悪感から解放してほしい」「これからは、私は私の人生を歩ませてほしい」
そんな強い願いが込められていたのだと思います。

私はずっと、母のために、母に認めてもらうために生きてきました。
だからこそ、インナーチャイルドを見つめる中で母への怒りが湧いても、それを感じることが怖かった。
幼いころから「私のせいで母が大変だった」と思っていたから、あの頃の私が感じていた気持ちを見つめようとしても、どこかで先に母の背景を理解しようとしてしまう私がいました。
あるとき一度だけ、勇気を出して母に過去の嘆きを伝えたことがあります。それはほんの些細なことでした。
けれど、母が悲しそうな顔をした瞬間、私はもう何も言えなくなってしまった。そのときの、胸の奥がきゅっと痛くなるような感覚は、今も複雑なまま心に残っています。
きっと私の心の奥には、母のことが大好きで、笑っていてほしい気持ちがあるのだと思います。でも、その気持ちに目を向けることは、当時満たされなかった幼い私の寂しさや悲しさに触れることでもある。
それがまだ今の私には少し抵抗があって、母を思う気持ちを“素直に認めきれない自分”がいるのを感じます。
きっとそれだけ、母との関係には長い時間の中で積み重ねてきた痛みがあったのだと思います。
今はまだ、母への感謝の言葉にはたどり着けていません。それでも母にもいろんな背景や思い込みがあったことを、少しずつ理解できるようになってきました。今はそれだけで充分だと思っています。
きっとこれからの人生の中で、少しずつその痛みをほどいていくのだと思います。
苦しみの中で見えてきたもの
インナーチャイルドと出会ってからの時間は、 私にとって“自分の深い思い”とつながる日々でした。
けれどそれは、決して穏やかなものではありませんでした。 自分の心を見つめるたびに痛みが湧き上がり、「もう見たくない」と蓋をしたくなる瞬間も何度もありました。
それでも今振り返ると、 その一歩一歩が、私が“本当の自分”を取り戻していくための大切な道だったのだと思います。
苦しくて立ち止まっても、そのたびに「諦めたくない」という思いが、そっと私を前に進ませてくれました。
そうやって私は少しずつ、“自分とともに生きる”ということを学んでいきました。
そんな道のりの中で、私を支えてくれたのが直子さんでした。どんなに苦しくても、逃げたくなっても、直子さんはいつも私を信じて見守ってくれました。
寄り添いながらも、私が自分の力で立ち上がれるように、必要なときだけ静かに手を差し伸べてくれる──

その存在があったからこそ、私は最後まで歩き続けることができたのだと思います。
“信じてもらえること”が、どれほど人の心を支えるのか。直子さんとの時間を通して、私は初めてその力を実感しました。
あの時間は、私にとって“心を取り戻していく時間”そのものでした。
自分との関係の変化
心の土台を育てていく中で、いちばん大きく変わっていったのは、私自身との関係でした。
これまでは、落ち込む自分や弱さを見せる自分を、どこかでダメだと感じていたように思います。「他にも大変な人がいる」と言い聞かせながら、自分の痛みをなかったことにして、前に進もうとしてきました。
でも本当は、自分の痛みを一番わかってあげられるのは自分自身。出来事の大きさではなく、そのときに自分がどう感じたのかに気づいてあげることが、変化の始まりなんですよね。
そして「心の土台」とは、感情が揺れなくなることではありません。揺れたとしても、自分の力でまた立て直せる力のこと。
私も最初の頃は“怒らない自分になること”が大事だと思っていましたが、そうではなく、どんな感情が出ても、自分で整えられるようになるだけで、生きやすさは大きく変わっていくのだと今は感じています。
“心の土台”は、誰の中にも育てていけるものです。特別なことをしなくても、自分の痛みや頑張りを認めてあげるところから、少しずつ変化は始まります。

思いどおりにできない日があっても、私は「それだけ頑張ってきたんだね」と、そっと声をかけてあげることができるようになった。そんな小さな変化が、心の奥に“安心”の根を育ててくれたのだと思います。
完璧じゃなくても大丈夫。弱いままでも、ちゃんと生きていける。そんなふうに思えるようになったのは、 何よりも私自身が私を信じられるようになったからかもしれません。
気づけば家族との関係も変化していった
自分との関係が変わっていったことで、少しずつ家族との関係にも変化が生まれていきました。
私の心の中の不安や恐れを少しずつ手放していくことで、息子を“私の一部”としてではなく、“ひとりの人”として見つめられるようになっていきました。
実は最近、息子がこんなことを話してくれたんです。
「ピアノをやっていた時のこと、思い出すだけで泣きそうになるんだよね。本当は俺にとってトラウマだったのかも。つらすぎて思い出を美化していたのかもしれない」
その言葉を聞いたとき、胸の奥がギュッと締めつけられました。
それでも私はやっと、ずっと言えなかった言葉を伝えることができました。
「怖かったよね。本当にごめんね」息子は「うん…でも、もう大丈夫だよ」と笑ってくれました。
その笑顔を見たとき、ようやく私たちの時間が“過去”から“今”へと動き出した気がしたんです。
叶うことなら、何度でも過去に戻って、子育てをやり直したいと思うことがあります。でも、もう過去には戻れない。
だからこそ、これからは息子との関わりを少しずつ“新しい形”に変えていけたらと思っています。
息子の存在には、言葉では言い表せないほどの感謝があります。おなかに命を授かったときから、たくさんの出来事がありました。子育ての中で傷つけてしまったことも多いけれど…
息子を通して私は、自分の心の奥と向き合う機会をもらい、今の私にたどり着くことができました。きっとこれらを私に気づかせるために、息子は私のもとへ来てくれたのだと今は思います。
「生まれてきてくれてありがとう」今は、その気持ちでいっぱいです。

そして、夫との関係にも変化が訪れました。
以前の私は、夫に「もっと察してよ」「わかってよ」と、いつも責めていました。でも本当は、大切な人だからこそわかってほしかった。強がっていただけで、心の奥ではずっと“つながり”を求めていたんですよね。
でも実は、夫は言葉にしない優しさでずっと私を支えてくれていました。そのことを、私は長いあいだ違う形で受け取っていたのだと思います。
出会ったころから変わらず、ありのままの私を受け止めてくれていた夫に、今やっと「家族になってくれてありがとう」と伝えられる私になりました。
日々生きていると本当にいろんなことが起きます。
家族との間でも意見がぶつかることもあります。でも、「喧嘩をしないこと」がいいのではなく、お互いが自分の思いを開示できる関係こそが、本当の“安心”につながっていくのだと思います。
もしあのとき、心の土台の学びに出会っていなかったら──
きっと私は、息子とも夫とも、心が離れていたと思います。どんなに優しい人でも限界はあります。そして私は、自分の“正しさ”で二人を縛りつけたまま大切なものを失っていたかもしれません。
だからこそ、今こうして家族と共に笑い合えることが奇跡のように感じます。
直子さん、プログラム、そして諦めずにここまで歩んできた自分。そのすべてに、心から感謝しています。
認定カウンセラーの道へ
気づけば私は、“受け取る側”から“届ける側”へと歩み出していました。

直子さんが私を信じて伴走してくれたように、今度は私が、同じように苦しむ誰かのそばでそっと手を差し伸べられる人になりたい。そう願って、私は認定カウンセラーの道を選びました。
あの頃の私のように、孤独の中で「自分を責め続けてしまう人」に、“自分を責めなくてもいい理由”を届けたい。
そして、「自分を信じてみよう」と思えるきっかけを届けたい。それが、今の私の原動力になっています。
高校時代、私は“生き抜くために”努力を手放しました。
でも今は、心の学びを通して、“生きるために”もう一度努力を始めています。
その努力は、誰かに認めてもらうためではなく、自分とつながり、自分を大切に生きるためのものです。
そうして積み重ねていく小さな一歩が、いつか誰かの支えになれたらいいなと思っています。
カウンセラーという道で、少しずつ、自分らしく頑張り直していきたいと思っています。
最後まで読んでくださったあなたへ

長いプロフィールを、最後まで読んでくださり本当にありがとうございます。
子育てをきっかけにポポラスと出会った私ですが、ここで教えてもらったこと──それは、
子どもや夫との関係をよくしていくためには、まず“自分自身と向き合うこと”が大切だということでした。
当時は頭でしかわかっていなかったこの言葉も、今ではしっかりとその意味を理解できるようになりました。
そして、自分の痛みや頑張りを自分自身が認めてあげられたとき、少しずつ変化は始まっていきます。
長い間私を苦しめてきた“わけのわからない怒り”にも、今は振り回されることがなくなり、少しずつ親子の関係を取り戻せるようになってきました。
いま、息子は思春期の真っただ中。
子育てに悩むことも、ぶつかることもあります。それでも、「今の私ならきっと大丈夫」と思えるようになったことで、そのたびに少しずつ立ち上がれるようになっています。
夫も変わらず、私たちにまっすぐな愛情を注いでくれています。そして私も、ようやくその想いをそのまま受け取れるようになりました。
そして何より──
私は今、やっと“生きていること”そのものに幸せを感じられるようになっています。
これまではずっと「人がどう感じるか」を基準に生きてきたけれど、少しずつ「自分はどうしたいのか?」を軸に考えたり、行動できるようになりました。
きっとその積み重ねが、
“生きることが楽しい”と感じられる日々へとつながっているのだと思います。
昔の私は、人を信じることが怖くて、それでもどこかで“人のぬくもり”を求めていました。
「どうしてこんな人生を生きなければならないんだろう」
そう思いながら、“生きていい理由”を探して懸命に生き抜いてきたように思います。
でも今は、あの頃の苦しみがあったからこそ、今の私がいるのだと思えています。つらかった過去は、私が懸命に生きてきた証。そして気づけば、人の優しさやあたたかさを素直に受け取れるようになっていました。
もし今、子育ての中で「私の人生なんて、もう諦めた…」そんな思いを抱えている方がいたら、どうか一度立ち止まって、自分の心に耳を傾けてみてください。
きっとその奥には、「それでも変わりたい」「幸せを感じたい」そんな小さな願いが、まだ残っているはずです。
ゆっくり、あなたのペースで大丈夫。あなたの中にも、ちゃんと立ち上がる力があります。
私もまだ道の途中。何度も立ち止まりながら歩いています。
だからこそ──あなたも一緒に “自分の人生”を歩いてみませんか。

