ポポラス認定 心理カウンセラーまりこ

Story
悩みを克服したカウンセラーの道のり

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悩みを克服したカウンセラーの道のり


ホームページにお越しいただき、ありがとうございます。

ポポラス
認定カウンセラーのまりこです。



「カウンセリングを受けよう」そう決意されるまでには、様々な葛藤があると思います。

「本当にこのカウンセラーで大丈夫だろうか」
「安心して話せる人なのだろうか」

と、お申込みのボタンを押すその瞬間まで、不安を感じるのは当然のことです。

私自身、かつては生きづらさを抱え悩み苦しんだ時期がありました。だからこそ、今、苦しんでいるあなたの気持ちが痛いほどよく分かります。

クライアント様からはよく「親しみやすい」「話すと元気になれる」「安心感がある」といったお言葉をいただいております。

はじめてお会いする方にも、心を開いて安心して話していただけるよう、温かい雰囲気づくりを大切にしています。

カウンセラーになる以前は、美容サロンを経営し、セラピストとして多くのお客様と関わってまいりました。特に女性の方々との深い関わり合いは、心理カウンセラーとしての土台を築く上で、かけがえのない経験となりました。

カウンセリングにおいて、カウンセラーとの相性は非常に重要です。

私がこれまで、どんな風に生きてきて、どのような生きづらさを抱え、どうやって克服してきたのか。

少し長くなりますが、私の経験を綴らせていただきます。このプロフィールを通して、私の人柄や想いが少しでも伝われば幸いです。

目次

プロフィール

生きづらさの原点 -「普通」の家庭に潜む見えない傷 –


私は、祖父、祖母、父、母、兄、私という6人家族の中で育ちました。

幼い頃から、自分の家庭はごく普通の幸せな家庭だと思っていました。もちろん今でも両親は私を大切に育ててくれ、不自由のない生活を送らせてくれたと思っています。

しかし、今振り返ると、一見穏やかで幸せに見えた我が家は、実は様々な問題を抱える「隠れ機能不全家族」だったのです。

幼少期の苦しみ – 摂食障害、脱毛、そして登校しぶり –

心の奥底に、いつも漠然とした不安や恐怖心を抱えていた子ども時代で、摂食障害、深刻な脱毛症、登校しぶりといった問題も抱えていました。

物心ついた時には、食べることは苦痛でしかなく、お腹が空いていないのに無理やり食事をさせられていたことを覚えています。

体が弱く、すぐに熱を出したり体調を崩したりしていました。2歳になる頃には、栄養失調で髪の毛が抜け落ちてしまったほどです。

当時の記憶は断片的ですが、いつも不安げな表情をしていた幼い自分の写真が、その頃の心の状態を物語っているように感じます。

母は、毎日仕事に出ていたため、私が学校を休むと祖母に世話を頼らなければなりませんでした。
当時の私は、母に嫌な顔をされることを恐れながらも、体調が悪いふりをして学校を休もうとすることがありました。

後に母と祖母の関係を知り、母が私を祖母に預けることに苦痛を感じていたことを知りました。


小学校一年生の時、担任の先生が産休に入り、クラス替えがありました。内向的だった私は環境の変化に耐えられず登校を渋るようになりました。

学校へ行かなければならないことは理解していても、どうしても足がすくんでしまうのです。

毎朝泣き叫び、家の柱にしがみつく私を、母は力ずくで学校まで連れて行きました。その様子をクラスの男子に見られ、顔から火が出るほど恥ずかしい思いをしたことは、今でも鮮明に覚えています。

毎日、朝が来るのが怖くて不安でした。この状況は2週間ほどで落ち着きましたが、私にとって忘れられない辛い記憶として残っています。

「良い子」の仮面 – 内向的な私と両親の期待 –

もともと私は、教室の隅で目立たないように過ごすことを好む内向的な子どもでした。

一人でいたいわけではないけれど、同じように大人しい友達と静かに寄り添っているのが心地よかったのです。いわゆる「コミュ障」というものだったかもしれません。

しかし、両親は私に、正反対の明るく活発な女の子であることを期待していたように感じます。

母が幼稚園の役員をしており、園長先生と親しかったこともあって、お遊戯会では絶対にやりたくなかったお姫様やおひな様の役を押し付けられ、練習から本番まで大きなストレスを感じていました。

とにかく、人前に立つこと、目立つことが苦手だったのです。

その後も両親は、私にサッカークラブに入ることを勧めたり、リレーの選手に立候補するように促したり、学級委員になることを期待したりと、様々な場面でプレッシャーをかけてきました。

まだ小学生だった私は、きっとそんな両親の期待に応えようと必死に頑張っていたのだと思います。

嘘をついたリレー大会 – 親の期待が重荷だった幼い私 –

小学校のリレー大会で、私はいつもスタートを走らされました。運動神経が良いわけではなかった私にとって、それは大嫌いな行事でした。

両親はいつも、ものすごい熱量で応援してくれましたが、その応援は私には重圧でしかありませんでした。ただでさえ緊張するスタートなのに、両親が見ていると思うと、何倍ものプレッシャーを感じたのです。

ある時、いつものリレー大会に両親が応援に来れないことがありました。それを知った私は、心底「やったー」と思い、とても気楽に走ることができました。

自分の順位は4位でしたが、家に帰って母に「1位だった」「いつも私より速い子が転んでしまったのだ」と、嘘をつきました。母はとても喜びましたが、私は罪悪感でいっぱいでした。しかし、母の喜ぶ顔を見て、どこか得意になっている自分もいました。

仕事から帰った父に、母はリレーで私が一番だったことを伝えました。ところが父は、仕事の合間にリレー大会を見に来ていたのです

全身が凍りつきました。

心臓が激しく鼓動し、何が起きたのか分からず、ただ涙が溢れてきました。祖母に促され、泣きながら両親に謝ったことは覚えているのですが、その後のことは覚えていません。

当時の私は、必要以上に両親の期待に応えたいと感じていたのかもしれないと、今では思います。多かれ少なかれ、子どもは無意識のうちに親の期待に応えようとしているのかもしれませんね。

もう一人の私 – 明るく活発な「まりちゃん」の誕生 –

このような経験を通して、私は本来の自分とは違う人格、「明るくて活発なまりちゃん」を身につけて生きることを選んでいったのだと思います。

小学校3年生のクラス替えの日、気が合う友人に出会えたことで、私の生活も性格も一変しました。

その日から、その友人の性格が乗り移ったかのように、明るく活発な自分へと変わりました。いつしか自然に身についた「明るくて活発なまりちゃん」のおかげで、私は楽しい青春時代を送ることができました。

学校では明るく快活な私は、部活で部長を務め、友人にも恵まれ、いつもたくさんの仲間に囲まれて幸せに過ごすことができました。

自身の傷つき体験や、シリアスなことも自虐ネタとして笑いに変えるようなところも、この頃から身につけたように感じます。

この「明るくて活発なまりちゃん」は、今でも私の性格の大部分を占めているように感じています。

しかし、その裏側には、幼少期の経験からくる心の傷が隠されていたのです。

家庭=安全基地であるはずの場所が、私にとっては必ずしもそうではありませんでした。

また、自分の欲求に無条件に応えてもらうことで得られる愛着形成も十分ではなかったのかもしれません。

親の期待する姿と、自分のありのままの姿とが、かけ離れていることは、機能不全家族の特徴の一つです。

私にとって、このような幼少期の出来事が、心の傷、つまり「トラウマ」となって残っていたのだと思います。

そしてこの傷が、その後の私の人生に大きな影響を与えることになるとは、当時の私は思いもしませんでした。

繰り返される心のパターン – 抑えきれない不安と怒り –

高校生になると大好きな彼氏ができ、交際が始まりました。しかし、両親から交際を反対されていたわけでもないのに、なぜかいつも心のどこかに後ろめたさがありました。

映画を見に行ったり、遊園地に行ったり、楽しいはずのデートの間にも、常に「家に帰らなければ」という思いが頭をよぎっていたことをよく覚えています。

うまく表現できませんが、心のどこかにいつも漠然とした不安のようなものが潜んでおり、私はこの何とも言えない心の不自由さを隠し持って生きていたように感じます。

20代で、10代から交際していた夫と結婚しました。

幸せな結婚生活を送るのだと思っていましたが、いざ夫婦生活が始まると、自分の本音をパートナーに伝えるのが苦手なことに気づかされました。

  • 自分勝手、ワガママを言わないように我慢する
  • 他者と話していると、自分が責められているように感じる
  • 世話してあげた人に感謝や承認されないと不安や怒りを感じる
  • 相手が何をしてほしいか敏感に感じ取る
  • 喧嘩やもめごとなど険悪な空気になるととても不安になる
  • 自分の不安や寂しさを周りに知られたくない
  • 嫌なことをされてもつい我慢してしまう、後から怒りがこみ上げてくる

アダルトチルドレンの特徴が強く出ていたと思います。

今思うと、当時の私は本当に面倒な性格でした。でも、そういうところを人には知られたくなくて、必死で隠していました。

そして、これらの問題にも「幼少期のトラウマが関係していた」ということに気づいたのは、随分後のことでした。

もう少し早く気づいていれば、私の人生は大きく変わっていたかもしれません。

漠然とした不安の根源 – 母が抱えていた苦しみ –

私が幼少期からずっと抱えていた漠然とした不安の原点、トラウマとは何だったのでしょうか。

ずっと後になって母から聞いた話ですが、母は三人兄妹の末っ子として生まれ育ち、とても可愛がられて育ったそうです。

ところが、五人兄妹の長男である父と結婚し、嫁という立場で父の家に入ったことで、それまでの母の生活は一変しました。

自由な生活から一転、義理の両親や、当時まだ学生だった父の弟や妹の面倒を見なければならない生活は、母にとって非常に辛いものだったそうです。

その中で私の兄が生まれ、兄がとてもやんちゃだったこともあり、私を妊娠してからは特に精神的にきつくなったと言います。

祖母は長男である父を溺愛し、母に対しては配慮がなく、母が父に何か頼み事をすると「この子がそんなことをするくらいなら私がやる」と言って、父が家事を手伝うのを嫌がったそうです。

そんな状態だったから、母は私がお腹にいたとき、臨月になっても、家事はもちろん、布団の上げ下ろしのような重労働もさせられていたそうです。80代半ばを過ぎた今でも、当時のことを苦しそうに話します。

私が感じていた得体の知れない不安感というのは、何か特別なエピソードや事件によるトラウマというよりも、もしかすると、こうした母のストレスや精神的苦痛にまつわる背景が関係していたのではないかと考えるようになりました。

子育てという試練 – 繰り返される負の感情 –

私の不安感情は実に根深く、一旦青春期の楽しさに影を潜めていたものの、妊娠を機に溢れ出すように再び姿を現しました。

封印したはずの私の中のモンスターが、瞬間的に覚醒したような感覚です。

そして、それを自分ではほとんど認識していなかったため、この漠然とした不安感情はさらに得体の知れないものとなっていたのだと思います


子どもを産むということ、そして子育てへの不安が体の中に渦巻き、今思うといつも地に足がついていないような気持ちでした。

無事に出産してからも、授乳がうまくいかないなど、些細なこともいちいち大問題として捉え、情緒が不安定になり、娘のことを可愛いと感じる感覚さえもよく分かりませんでした。


また、そういう自分を、特に夫に悟られることをひどく恐れていました。

こんな私に気づかれないように「子供のことは何でも私に任せて大丈夫!」という、何でもさらっとこなせる母親像を無理やり演じようとしていました。

そういう私でなければ価値がないと、自分で勝手に決めつけていたのだと思います。

自分で自分を追い込んだ私の子育ては、初めから無理があったのです。

今思えば、もともと自身に愛着形成の問題があり、子育てにとって非常に大切な「受容」というピースが不足していたわけですから、子育て自体が修行のようだったと思います。

特に娘が生まれてからは、自分の中に怒りの感情が吹き出すことが増え、娘が何かにつまずく度に不安になり、その感情はいつも怒りへと変わりました。

娘を脅して、自分の思い通りにコントロールしようとすることがどんどん増えていきました。

娘が思い通りにならないとすぐにイライラして、「ママの言うことを聞かないと、ママいなくなっちゃうから!」などと脅し、娘を常にコントロールしようとしました。

それとは反対に、夫には本当に言いたいことを言えず、頼み事をひとつするのにも躊躇する私がいました。

そんな状態にもかかわらず、当時、夫との関係自体に問題があるとは感じていませんでした。それどころか、世間と比べて良好な関係だと思っていたくらいです。

今思えば、自分が生まれ育った「隠れ機能不全家族」と似ていますね。

家庭や子供のことを文句も言わず頑張ってこなし、何でも一人で頑張っている自分に酔いながら、一方では、夫にそういう自分を見つけて認めてほしいという欲求を人一倍感じていました。

また、時々夫は、理由も分からず不機嫌になることがあり、私はその空気感がとても嫌で、不安でたまりませんでした。

でも、その気持ちを、どうしても夫に伝えることができませんでした。そういう空気になると「パパは今、機嫌が悪いからちょっと我慢して」などと、いつも娘に、大人の都合を押し付けました。

小学生までの娘は、とても活発で好奇心旺盛で幸せそうな子どもでした。

感受性が強く自我が強いところもありましたが、私がいつも自分の子ども時代の写真を見て感じるような、怯えたような不安そうな顔はほとんど見たことがありませんでした。

そういう娘を見ていて、どこかでいつも「私に似ていなくてよかった」と、ホッとしている自分がいました。

私は、自分の中にある得体の知れない不安感情に気づかないまま生きていました。

ですが、自覚がないからといって不安がないのとは違います。私の無意識の中には大きな不安がしっかりと潜んでいたのです。

自分の中に潜む不安感情が湧き出ることを恐れ、常に 傷つかないように行動することが最優先になっていたのではないか…と、今になって思います。

だから、娘が不安を露わにすることを、とても恐れていたのだと思います。

そのために、娘が傷つくことを避けようと、常にパトロールして備えておく必要があったのでしょう。私はまさに、過干渉ママのお手本のような子育てをしていました。

でも、そうやって抑えようとすればするほど、その不安は娘の中で大きくなっていったのだと思います。彼女のためと信じ込んで必死になって身につけさせようとした私のエゴは、少しずつ娘の健全な精神を蝕んでいきました。

娘のSOS – 不登校、そして向き合う「大嫌いな私」 –

私の不安が的中するかのように、中学生になった娘が「不登校」になりました。

とうとう「娘の中の大嫌いな私」と対面するときがきたのです。

毎日暗い目をして下を向いているその姿は、ずっと私が隠そうとしてきた「私の中の不安な私」そのものでした。

あの頃の辛さは今まで感じたことのない感情でした。

病院に連れて行ったり、何か彼女を助けられる手立てはないかと、ネットで関係のありそうな情報や書籍を探しては読み漁りました。

気功を使った治療院にも行きました。挙句の果てには不良を更生させるヤンキー先生の教材まで買ってしまったこともありました。

とにかく娘を何とかしなくては、学校へ行けるようにしなくては!という一心で、思いつくことは何でもしました。

そのとき読んだ書籍で、「毎日子どものいいところを見つける努力をし、見つけたら子どもに対して『ありがとう、ママ嬉しいよ』と言いましょうと書いてあるのを見つけました。

私は学んだ通り、必死になってやりました。でも、それはとても辛いことでした。

当然です、本心ではないのですから。

本当の自分は、娘を見ているだけで辛くて嬉しいことなんか一つもないのに、嬉しいと言わなければならない。

当時の私にとって、学校にも行けていないのに、こんなに苦しい思いをしているのに、いいところを見つけて「ありがとう」と言うなんて…苦行でしかありませんでした。

それでも私は娘に学校に行ってほしい思いで声をかけ続け、娘は2ヶ月ほどで登校を再開しました。

見過ごしてしまった本質 – 子は親を映す鏡 –

しかし、私の「最大の後悔」はこの時なのです。

ずっと後になってから、「子は親を救うために問題を起こす」ということを仰られていた精神科の先生の書籍を読んだのですが、本当にその通りだと今は分かります。

でも残念ながら、あの頃の私は、娘の不登校を「自分の問題」だと感じる余裕は微塵もありませんでした。

私は、娘がどんな風に感じているのか、娘はどうしたいのかということに全く興味が持てず

協調性を身につけさせなければ…とか、社会で困らないようにさせてあげなければとか「私が彼女を変えてあげるんだ」という万能感のもとに全精力を間違ったベクトルに向けて費やしました。

学校へいけない娘を恥ずかしく感じ「どうして私にこんな思いをさせるの」と娘に対して怒りさえも感じることさえありました。

そんな私が問題の本質に気付けることは当然ながらありませんでした。。

次々と起こる問題 – 娘の苦しみ、そして焦り –

不登校が解消してからも、娘は元の明るい彼女に戻ることはありませんでした。

常に人の目が気になり、友人の好みに合わせて洋服を選んだり、学校でのヒエラルキーを気にして無理をしたり。

仲の良い友人ができても、学校を一日休んだだけで急に立場が悪くなっていて、登校したら突然みんなに無視されるようになっていたり。

学校から「もう死にたい」とLINEしてきたこともありました。

側から見ていて学校生活を心から楽しんでいるようには思えませんでした。

毎日娘のことが心配で、いつも「この子をどうにかしてあげなくては」という想いにかき立てられました。

「もう少し笑ってごらん、笑っているといいことあるよ」とか、「もう少し優しい子と付き合えばいいのに」とか

今思うと大きなお世話ばかりで…

そんな過去の自分が本当に恥ずかしいです。

私は娘の動向に一喜一憂する日々を送っていました。


今思えば、これこそが他人軸で生きるということで、自分で自分の人生の舵を取れない生き方に翻弄されていたのでしょうね。

娘の大学中退 – 断ち切れない不安 –

そんな生活の中、娘も大学へ行けばいろんなことが良い方向に変わると信じていました。

娘も「この息苦しい生活から外へ出れば、きっと人生が変わる」と思っていたのかもしれません。当たり前のように県外の大学を選び、高校卒業と同時に家を出ました。

でも心の土台が形成されていない彼女は、新しい生活が始まっても何も楽しいと思えず、やりたいこともなく、世の中に希望や安心を感じることさえ難しかったのではないかと思います。

通い始めた大学でも楽しいことは見つからず、すぐに「大学を辞めたい」と言い出しました。

それなのに私は、この時もまだ物事の根本原因に気づかず、彼女を自分の思うようにコントロールすることばかり考えていました。

そのうち娘は大学に行かなくなり、コンカフェ(ガールズバーのコスプレ版のようなもの)でアルバイトを始め、連絡も途絶えるようになりました。

これからどうなってしまうのか…という不安に耐えながら、娘のことが頭から離れることはありませんでした。

この頃の私は、なぜか「娘が死んでしまったらどうしよう」と、本気で考えていました。

毒親だった自分 – 深い後悔 –

その頃、その状況に耐えるのがあまりに辛くて、娘の気持ちを知りたい、わかりたい一心でネット検索したり、関連がありそうな書籍を手当たり次第読みました。

その中で出会った何冊かの書籍によって、もしかしたらこれは「彼女の問題ではなく、私の問題なのかもしれない」と気づいた瞬間がありました。

そして自分がとんでもない「毒親」だったことにも気づきました。しかも、一番タチの悪いタイプの「隠れ毒親タイプ」にぴったりと当てはまっていました。

さらに、娘に現れる不安げな感じと、これまでずっと抱えてきた自分自身の不安感情が強く関係しているのではないかということにも気づきました。

なんとかしなくては、自分を変えなければと強く思いました。

でもこの時にもやはり私は気づけなかった…

いえ、気づいたことは気づいたのですが、気づいたことを自分にしっかりと落とし込んで習慣化するという方法がどうしてもわからなかった。

簡単に言えば「自分を変える」ということまではできなかったわけです。

それからは、娘にどんな対応をしてよいかわからなくなりながらも、書籍等で得た知識があったため
「余分なことは言わないように心がける」「なるべく娘のことを受容する」というようなことを気をつけながら接していました。

この頃も、私のメンタルはなかなか大変でした。

気づかずに娘をコントロールしようとしていた時とは違い、自分が大きな過ちを犯したことはわかっていました。

それなのに、受け入れてあげなくちゃいけないのに、私が悪いのに、ありのままの娘を受け入れてあげることが、どうしようもなく苦しいのです。

娘の「こうなりたい」と、私の「娘にこうなってほしい」が違うから認められないのです。

認められないのに認めないといけないから辛いのです。

この頃の辛さは、娘が不登校の頃、必死で「ありがとう、ママ嬉しいよ」を繰り返したあの日々の苦しさと似ていました。

変われずに元の自分へ – 繰り返される悪循環

そして半年も経つと、やっとたどり着いた大切な気づきさえも次第に薄れていき、またも娘を自分の思うように誘導したい欲が顔を出し始めました。

娘に気づかれないようにコントロールするという安易な選択に至るまでに、そう時間はかかりませんでした。

当時の私の娘への執着は、呪いのように本当にしつこくて、自分でも呆れるのですが、それがあの頃の私の現実でした。

そんな私の浅はかな策略を、娘は簡単に見抜いていました。

私は、彼女をどんなにがっかりさせてしまったことでしょう、、、。

「何だかんだ言ってママはやっぱり変わらない」そう思ったのではないでしょうか。なんて恐ろしい母親だったのだろうと思います。

娘はこの頃から精神的な問題を抱えるようになり、うつ病、醜形恐怖症であると診断されました。

「自分の顔が大嫌い!」とよく嘆いていました。

私が長年、ありのままの彼女を否定し続けてしまったことで、自分の存在価値が分からなくなってしまっていたのでしょう。

そのままの自分でいいと思えず、人を信じられず、世の中が安全なところだと思えないようになっていたのではないかと思います。

私はそこから、何年も悩みながら、心理学を学んだり、心理カウンセラーの資格を取ったり。

親子問題専門のカウンセラーさんに相談したりと、問題解決の答えを探し続けましたが、娘との関係は決して良い方向には向かいませんでした。

整形手術の衝撃 – 崩壊した親子の絆 –

そしてある日、娘が一人暮らしをするアパートを訪ねると、そこには私の知らない娘がいました。美容整形をして顔が変わっていたのです。

言葉にならないような衝撃を受けました。

私たち親子はもうダメだと思いました。心の中で「もう無理なんだ」と繰り返し呟いていました。

もう彼女のことは、諦めようと思いました。

どうしても彼女の決断を認めてあげられず、「私みたいな母親はいない方が娘は幸せになれるんじゃないか」と本気で思いました。


それから一ヶ月ほど娘に連絡することもできず放心状態のまま過ごしました。


絶望からの光 – 心の土台構築プログラムとの出会い

それでも、娘を想う気持ちが最後には勝ったのかもしれません。

気力を振り絞り、フラフラとネット検索をしていた時、このプログラムがふと目に止まりました。

「私と同じ思いをしている人がいたんだ」と心臓が飛び起きた気がしました。


長い長い道のりを経て、私はやっとこの「心の土台実践構築プログラム」にたどり着きました。

これが、私たち親子を救ってくれた、カウンセラーであり、ポポラスの代表である直子さんとの出会いでした。

ここでの学びや実践は、長く長く悩み抜いた私の生涯を通じた問題に明確な答えをくれました。

  • 他人との心の境界線が曖昧であったこと
  • 幼少期に心に負った傷やトラウマが生きづらさの原因であること
  • ありのままの自分を受け入れて認めることの重要さ
  • 思い込みや思考の癖を修正すること


楽に幸せに生きるためのヒントが散りばめられていました。

私自身が、ありのままの自分を受け入れることができて、初めて他人を受け入れることができるのだということを知りました。

残念ながら私は、両親から育てられた中で自分を受容してもらうことが不十分だったのだと思います。

このプログラムでは、カウンセラーの直子さんが、母や父の代わりとなり優しく根気強く寄り添いながら新しい私を一緒に育てて下さいました。

気づいた時には、それを自分に、そして自分の子供にもしてあげられるようになって行きました。

皆さん、もうお気づきかも知れませんが、このプロセスは子育てにとてもよく似ています。

「学び、実践し、気づき、繰り返す」シンプルでわかりやすく、覚悟さえ決めれば、特別なスキルを必要としないため、私の心にスッと沁み渡るように浸透していきました。

取り組む姿勢で個人差は出るかも知れませんが、自分の心の傷を癒し、自分の思考の歪みに気づき、真っ直ぐなものの見方を再構築していくことを試行錯誤しながら実践する。

このプログラムに取り組んだことで、私は新しい自分に出会うことができました。

私という人間を再構築しながら、自分がしがみついていた執着ひとつひとつを手に取って、今までの自分に「ありがとう、頑張ったよね」と心から感謝することができました。

「執着を手放すためには安心が必要」これも、ここで教えていただいた大切な学びの一つです。

このプログラムを受講して、自己受容の大切さを学びました。実践し続ける中で、自身に対して生まれてはじめて温かい気持ちが芽生えたのを感じたことがありました。

それから間もなく、ずっと連絡がなかった娘から、夜中に「ママの夢を見て連絡したの」とLINEが入ったのです。

娘のその言葉に、張り詰めた糸がプツンと切れたように気持ちが溢れ出し、私は子どものように泣きました。


間違ってばかりだったけど私の想いはきっと娘に届いているんだ。彼女と私は今でも繋がっているんだ。

そう思えて、胸が締め付けられる思いでした。

講座が終わりに近づいた頃、やっと自分自身を受容して、長い呪縛から自分を解放してあげられるときが来ました。

そのとき、娘に対する申し訳なさが自然と込み上げて来たのです。私は娘に連絡し「辛かったね、ひどいママだったね、ごめんね」と心から謝りました。

すると娘は「何でわかってくれないんだろうと思うことはあったけど、ひどいママだと思ったことは一度もないよ」と言いました。

「ママのこと大好きなんだよ」とも言ってくれました。

私が初めて、母親として心の底から幸せを感じられた瞬間だったと思います。

このことをカウンセラーの直子さんに泣きながら報告しました。


すると、直子さんは私に「やっと本当の自分を迎えに行ってあげられたんですね」と言い、一緒に泣いてくださいました。

この日の私は一生分くらい泣きました。明らかに世界が明るく見え出した瞬間でした。


今の私 – 過去を力に変えて –

失った時間は元には戻せません。

娘はあんなに何度もチャンスをくれたのに、私は気づくことができませんでした。過去に戻ってもう一度やり直したいと願っても、もう時間が戻ることはありません。

後悔しています。 悔いても悔やみきれない思いです。

後悔しながら、私は今「自分のこと」に向き合っています。

今でも娘は、私の子育てによって負ってしまった傷を、克服できたわけではありません。彼女の問題はいつも私の心を揺さぶるし心配する気持ちに変わりはありません。

でも、今の私の中には、自分軸がしっかりと根を下ろし、起きた問題をセルフモニタリングし、自分自身に適切な声かけができるようになったことで、私の中のレジリエンス(回復・適応能力)は格段に変わりました。

今の私は、以前の私とは比べ物にならないほど、自由にラクに自分の人生を楽しんでいます。

そして今まで娘に感じることのなかったような愛おしさを感じている私がいます。

顔が少しくらい変わったからといって何がそんなに辛かったのだろうと、あの頃の自分を不思議に思うほどです。

先日、今の私について娘に尋ねると「自分から近づきたいと思えるような存在かな」という答えが返ってきました。ジーン…

そしてもうひとつ驚くのが、夫との関係です。

明らかに夫が優しくなったように感じます。


とにかく一緒にいて楽になりましたし、夫が私を気遣って尊重してくれる気持ちが手に取るようにわかるようになったのです。

それはきっと私のものの見方や思考が変わったからにほかなりません。

私に必要だった、たくさんの気づき。
そして長い間、不安という感情に悩まされ続けた私の心に、安心という優しい光を与えてくれた、このプログラムとの出会いにとても感謝しています。

最後に あなたに伝えたいこと

世の中には以前の私のように 

  • ありのままの我が子を認めて幸せにしてあげたいのにどうしてもうまく行かない 
  • 言いたくもない暴言を吐いて我が子を傷つけ続ける自分が許せない
  • 一旦怒りのスイッチが入るとどこまでも我が子を追い詰めてしまう
  • 子供に問題が起きた時、つい解決策を考えてしまう 

そんなお母さん、たくさんいらっしゃるのではないかと思うのです。

過去の私と同じように、得体の知れないしんどさに振り回されて、苦しんでいるお母さんたちと話したい。

私のような後悔するママをひとりでも減らしたい。

娘のような辛い思いをする子供をひとりでも減らしたい。

私のこの想いが、今一人で苦しんでいるあなたに伝わるといいなと、心から思います。

どうか勇気を出して一歩踏み出してみてください。あなたのその勇気を、私がしっかりと受け止めます。



長い長いプロフィールを、最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

あなたとの出会いを心よりお待ちしております。

ポポラス認定 心理カウンセラーまりこ