ポポラス認定 心理カウンセラー 平山妙子

Story
悩みを克服したカウンセラーの道のり
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悩みを克服したカウンセラーの道のり
ホームページをご覧くださり、ありがとうございます。
ポポラス認定カウンセラーの平山妙子です。

悩みが深ければ深いほど、「誰かに話して、安心したい」そう思われるのではないでしょうか。
私自身、「こんな悩みは私だけかもしれない…」「こんなことを話したらどう思われるかな…」と、なかなか相談する勇気が持てず、長年苦しい思いをしてきました。
だからこそ、今、誰にも言えずに悩んでいるあなたの気持ちが痛いほどよく分かります。
クライアント様からはよく、「親身に話を聞いてくれる 」「話しやすい 」「どんなことでも否定せず受け入れてくれる」といったお言葉をいただきます。
初対面でも安心して話せるような、温かく穏やかな雰囲気づくりを何よりも大切にしています。
カウンセリングにおいて、カウンセラーとの相性は非常に重要です。
私がこれまで、どんな風に生きてきて、どんな生きづらさを抱え、それをどうやって乗り越えてきたのか。
少し長くなりますが、私の経験を綴らせていただきます。このプロフィールを通して、私の人柄や想いが少しでも伝われば幸いです。
プロフィール

助けを求められず絶望 – 幼き日の記憶 –
私は、福岡県の田舎で、父・母・姉・兄・祖父・祖母という大家族の末っ子として育ちました。
父は、朝早くから夜遅くまで仕事で、ほとんど顔を合わせることはありませんでした。母もフルタイムで働いていたため、私の記憶の多くは祖父母との思い出です。
幼い頃から人見知りが激しかった私は、幼稚園でもなかなか友達ができず、一人で絵を描いているような子供でした。
一人でいることは特に気にしていなかったのですが、男の子から強い口調で酷いことを言われることが多く、それが嫌で幼稚園に行くのがだんだん辛くなっていきました。
休むことが許されない家庭だったため、毎日泣きながら幼稚園に通っていました。親や先生に自分の気持ちを言えない子供だったので、常に我慢していたように思います。
大人になってからも、強い口調で言われたり反論されると、自分が責められているように感じることが多くありました。
振り返れば、この頃の経験も、私の生きづらさの原因となった一つだったのかもしれません。親や姉妹だけでなく、出会った人や環境の影響も大きかったように感じています。
形だけの家族 – 愛情を知らずに育った幼少期 –
我が家は、外から見れば祖父母、両親、姉、兄がいるごく普通の家庭に見えていたと思います。ですが、実際はそうではありませんでした。
父は婿養子でしたが、亭主関白で自分の靴下すら自分で出さないような人で、母に対して王様のように振る舞っていました。
私は物心ついた頃から、そんな父のことを嫌だと感じていました。
父とは基本的に顔を合わせることはありませんでしたが、母は何かあるたびに父の悪口を言っていたので、自然と私の中で嫌な感情が芽生えていったように思います。
母はいつも父の言いなりで、子供たちのことよりも父の機嫌ばかりを伺っているように見えました。本音を誰にも言えずに一人で我慢していたのかもしれません。
私にとって母の愚痴を聞く時間は、嫌な記憶として残っていましたが、誰にも話せず1人耐えていた母を思うと、仕方なかったのかなと今は思えます。

ただ、両親が仲の良いところなど一度も見たことがなく、「愛情」というものがどんなものか分からずに育ったため、私自身がカウンセリングを受けたときに、幼少期に必要だった愛着という土台がないことが様々なところに影響していたと知り、すごくショックを受けました。
早く知っていれば「こんなに苦しく生きづらい人生は送らなかったのでは?」と、正直思うこともありました。
父は要らない存在 – 暴力への嫌悪と後悔 –

小学生になってからは、父と会話をすることが極端に減りました。自我が出てきたこともありますが、私の見てる前で、父が母に手を上げたことがあったからです。
その時から、私の中で「暴力を振るう男は最低だ」という強い拒否反応が生まれ、私の中で父は“要らない存在”になっていきました。
逆に母に対しては「私が守らなければいけない」と変な正義感を抱くようになっていきました。
このことは私の中で大きく残り、父の存在をずっと許せずにいたのですが、父が亡くなった今では、あの頃は父から直接話を聞いていなかったので、もっと話をしていれば何か変わっていたのかも…と、後悔の思いがあります。
可愛がることが分からなかった小学校時代

小学生の頃は、毎日のように友達と遊んでいました。学校の遊具や公園で遊んだり、友達の家で絵を描いたり…。遊んでいるときは、父や母のことを考えなかったので、ただただ楽しかった記憶があります。
ただ、友達の年の離れた弟に対して可愛いとは思っていたものの、どう接していいか分からず、いつも意地悪なことばかり言っていた記憶があります。
特に年下の子に対しては負けたくないという思いが強く、優しくできない人間でした。
愛情というものが分からないことは、ここにも影響していたのだと思います。
姉との関係 – 憎しみと理解 –
私達きょうだいが大きくなるにつれて、父はだんだん家の中で孤立していきました。
あれだけ怖かった父でしたが、私の成長と共に怖いという気持ちが少しずつ薄れていったように思います。父がいないときの我が家は会話も増え、笑い声もあり平和な時間も増えました。
それは良かったのですが、会話が増えた分、四つ上の姉とのケンカが増えました。
姉に対して、私が何か言い返すと、そのたびに姉から平手が飛んでくるようになりました。馬乗りになって何回も叩かれたこともあります。
もちろん私が生意気だったこともあったのだと思いますが、それだけではなかったのです。
後から知ったことなんですが、姉は私が知らないところで父から叩かれていたそうです。このことから姉は私を捌け口にしていたんじゃないかと思います。
当時は、姉を受け入れることが難しかったのですが、長女としての立場や親との関わり方を思い出すと、そうせざるを得なかったのかなと、ようやく姉を理解することが出来るようになりました。
母に「死ね」と言ってしまった中学時代 – 抑えきれない怒り –
中学生になり、姉から叩かれることはなくなったのですが、それと同時に私の反抗期が始まりました。自分ではどうしようもないくらい毎日イライラしていました。
学校の先生たちからは優秀だった兄と比べられる日々で、ますます勉強が嫌いになりました。
兄は成績優秀、姉はスポーツが得意。そんな2人を見ていた私は、「私には得意なものがない」「何をやってもダメな人間だ」と思い込むようになりました。
そしてある時、何かを母に責められ「父には何も言えないのに私には言うんだ」と、それまで我慢していた母に対しての怒りが抑えきれなくなり、母に“死ね”と言ってしまったんです。
幼少期に、自分の不満や不安な気持ちを何一つ言えなかったことで一気に溢れ出したように思います。
そんな言葉を言ってしまったことに自己嫌悪になりつつも、素直に謝ることができずにいました。
当時は怒りに支配されていたので、私自身も辛くて苦しかったと思います。今は自分が親になり、さらに自分を許せたことで母に対しては申し訳なかったと思っています。
友達との比較 – 自分を卑下する日々 –
中学時代に仲良くなった友達は、オシャレでブランド物を身につけている人が多く、自分の家庭を貧乏だと思っていた私は、差を見せつけられているように感じました。
平静を装っていましたが、心の中では「羨ましい」という嫉妬心が溢れ、同時に自分一人だけ違う世界にいるような感覚でした。
人と比べて落ち込む強い劣等感や嫉妬心は、大人になってからも根強く残っていて、比べたくないのに無意識に人と比べて、自分を卑下したり否定する癖がついてしまっていました。
今も時々比べてしまうこともありますが、結局は自分の問題だと分かるようになったので、苦しい思いからはすぐに抜け出せるようになり、これだけでもかなり生きやすくなったなと感じます。
劣等感って、本当に苦しいですよね。
たった一言で友達を失い一人ぼっちになった高校時代 – 深まった孤独 –
高校は仲の良かった数名と一緒に入学しましたが、一番仲の良かった友達に新しい友達ができ始めました。
人見知りだった私はなかなか友達ができず、その友達だけが頼りでした。そんな矢先に友達に新しい友達ができたことで、“私より別の友達を選んだ…”という嫉妬、そして怒りが芽生え始めました。
今思えば、友達が離れていくような気がして、ただただ寂しくて仕方なかったんだと思います。
だけど、その時は自分の感情が分からず、私の寂しさは怒りにすり変わり、悪口に変わってしまったのです。
そして、その悪口は本人の耳に入り、私は中学時代の友達全員から徹底攻撃を受けることになりました。
もちろん悪口を言った私が悪いのですが、関係なかった友達たちが、ここぞとばかりに攻撃してくる言葉にショックを隠せませんでした。

私は当然のことながら一人ぼっちになり、一切誰とも口をきかなくなったのです。
この時期くらいから「自分は嫌な人間」「自分が嫌い」「誰も信用しない」そんな思いが芽生え、さらに感情を出せなくなっていきました。何より親にも相談できなかったことが一番辛くて悲しかった記憶があります。
とてつもない辛さから自傷行為が始まり、コンパスの針で腕を傷つけるようになりました。どれだけ自分を傷つけてもスッキリ感はなく、ただただ表に出せない感情を抑え込むためにやっていたように思います。
今この時を思い出すと、相談できる人が一人でもいたら、こんなに苦しむことはなかったのかなという思いでいっぱいになりますね。
予期せぬ助け船 – 音楽との出会い、そして新たな友情 –
それ以来、学校には感情を殺しながら登校していました。
当時、姉の影響で音楽を聴くようになったのですが、その音楽のおかげで無気力だった私に一筋の光が差したように思えました。この頃は姉との仲も良くなり、助けられたこともたくさんあったことを思い出します。
そんなある日、一人で学校に行っているのが気になったと話しかけてくれた人がいました。

その人はクラスが一緒で、話をするうちに音楽が好きなことが分かり、だんだん一緒にいるようになりました。
友達ができたことで、私は今までのことを反省し、友達を大事にしようと初めて思えるようになったのです。この友達とは大人になっても関係が続いています。
生まれて初めて人生が楽しいと思えた時間 – バンド活動 –
傷つけてしまった友達のことが気になりながらも、時間が経つにつれて関係は緩和していきました。
仲良くなった友達は、いつしか親友と呼べる存在になり、ライブに行ったり自らもバンドを組んだりと、人生の中で初めて心から楽しいと思えた日々を過ごすことができました。
今まで、勉強もスポーツも苦手でダメな人間だと思っていた私でしたが、音楽という、家族が誰一人踏み込んでいなかった世界を知ったことで、自分だけの世界ができたようで嬉しくなり、どんどんハマっていきました。
ハマっていくうちに、家族のことや辛かったことなどを忘れていくことができ、“私でも生きていていいんだ”と思うようになりました。
当時は全く分からなかったのですが、結局のところ、「自分が満たされているか」が大事だったんだな…ということがわかりますよね。
いつまで我慢が続くの? – 進路、そして我慢の限界 –
楽しい日々を過ごしていましたが、就職活動がやってきました。
私には、就職ではなく調理師の専門学校に行きたいという思いがありました。ですが、3つ上の兄が大学に行っていたため、親からは「無理」、祖父母からは「女は進学とかせんでいい」と一蹴されました。
これまで次女という立場で後回しにされたり、お下がりばかり。高校さえも姉の制服があるからと姉と同じ学校に行き、我慢ばかりしてきたのに、まだ我慢しないといけないんだ…。そんなことを思うようになりました。
ですが、そう思っても諦めるしかなく、仕方なく気持ちを切り替え、私は大手のパン屋に就職をし、新たな一歩を踏み出しました。
そして就職と同時に親友とも会う機会が減り、毎日家と職場の往復でつまらない日々を過ごしていました。
就職してからの苦痛…仕事が遅すぎて上司からキレられる毎日 – 自己否定の再来 –

私は何をやっても不器用だったのですが、やっぱり仕事でも作業が遅かったため、毎日のように上司から怒られていました。
心の中で「やっぱり私はダメな人間だ」と、また自分を責めるようになっていきました。
そんな時に、仕事の業務形態が変わり、ありえないほどの仕事量が回ってきたのです。ただでさえ遅いのに…。当然のことながら不安が押し寄せてきました。
しかし、予想外のことが起こったのです。なぜか今までとは全く変わり、別人級に仕事をさばくことができるようになったのです。私は忙しくなった方が集中できるのかもしれないと、その時初めて思うことができ、向き不向きがあることに気づきました。
それからは、怒ることしかなかった上司が、手の平を返したように優しくなりました。この件で、私は仕事ができること、褒められることで、少し自信がもてるようになっていきました。
突然始まった周りからのイジメ – 人間関係への不信感 –
自信がついた私は、職場での付き合いも上手くできるようになっていきました。
先輩たちも優しくしてくれて上司も優しくなり、帰りにみんなで食事に行ったり送ってもらったりして、楽しい日々を過ごせるようになりました。
しかし、そんな状況も束の間、一人の先輩から無視されるようになったのです。先輩と仲の良かった人も私を無視しはじめました。
さらに追い打ちをかけるように、一緒の仕事を担当していた上司までもが突然無視するようになったのです。理由はあとからわかったのですが、先輩や上司からの嫉妬でした。
私は訳が分からないまま、また少しづつ心を閉じていき、毎日が本当に辛くて、働き始めてから約10ヶ月で退職の道を選びました。
人間関係を円滑にしたくて分け隔てなく人と話そうと心掛けても、それでも嫌な人が現れてイジメに変わるんだと分かり、さらに人との付き合い方が分からなくなりました。
険悪な家族 – 深まる孤独 –
その頃、家族はというと、姉は一人暮らしをし、兄は大学の近くに引っ越し、祖父母と両親と私の5人で住んでいました。
子供が一人という状況で、また会話がなく険悪さが増していきました。
兄の大学費用でさらに家計に余裕がなくなり、父の仕事の材料費を私が払うことになったのです。
正直、「自分ばかりがなんでこんな目にあうの?」「私は幸せになれない」そんな思いでいっぱいでした。後から知りましたが、姉も多額のお金を両親に渡していたようです。
精神不安定…バイトを転々とする日々 – 自己肯定感の低下 –
仕事を辞めてからバイトを始めたのですが、そのほとんどが人間関係がうまくいかない理由で続かず、転々としました。
洋服の販売、下着の販売、病院での調理業務、靴の販売、雑貨販売、花の栽培業務、キッチン家具製造業、自転車販売・整備…。その中でも、やっぱりイジメがありました。
「やっぱり私は人とうまくいかない…」辞めるたびに思っていました。
仕事の過酷さから摂食障害、さらに病気が判明 – 心身の限界 –
職を点々としてきた中で、花の栽培の仕事は父方の親戚のところだったので、人間不信な私でも働きやすい環境でした。
ですが、毎日40度以上のハウスの中での作業は辛く、食事が喉を通らなくなっていきました。
さらに生理痛もひどくなり、ある日、仕事中に立ち上がれなくなったこともありました。そのとき受けた診断は“子宮内膜症”でした。
子宮内膜症、摂食障害で体重が激減していたため、このままでは続ける事が出来ないと判断し、仕事を辞めることにしました。
当時も苦しい日々だったのですが、バンドの存在や当時お付き合いしていた彼氏のおかげで精神的に救われました。
ですが、だんだん彼氏に対して「私にはこの人しかいない」と思うようになり、少しづつ依存するようになっていきました。
愛情が次第に依存に変わる – 歪んだ関係性 –
バンド内での恋愛だったこともあり、最初は私情を挟まないように切り替えていました。
ですが、彼からの束縛が酷くなり、愛情というものが分からなかった私は「束縛することが愛情なんだ」と錯覚し始め、私も彼に対してだんだんと束縛するようになっていったのです。
最終的には立場が逆転してしまい、彼は離れて行ってしまいました。さらに、同じ時期に親友からの裏切りもあり、ますます人を信用することが出来なくなっていったのです。

彼しかいないと思い込んでいた私は塞ぎこむようになり、ご飯が食べられず摂食障害を発症することになります。
恋愛は相手との距離が近くなる分、「相手は自分のものだ」という勘違いが発生しやすくなります。私もそうだったのだと思います。これは、家族間でも起こりうることですよね。
ただただ自分を責める毎日 – 深まる自己嫌悪 –
失恋してから現実と向き合うことができずに、ただただ自分を責める日々を過ごしていました。
バイトも就いてはダメになる。そんなパターンを何度も繰り返すことから「上手く行っても、結局どん底に落ちる」と自分の中で思い込むようにもなっていました。
「私は幸せになんてなれない」「幸せになってはいけない存在なんだ」と思うようにもなったのです。
本来、幼少期にもらえるはずの愛情がもらえなかった…それだけで、こんなにも人生に影響するんだと驚いているし、幼少期の経験がどれだけ大切なのかも今なら分かります。
救世主現る – 友人との再会、そして新たな希望 –
自分を責める毎日。次第に私は感情をなくしていき、笑うことも出来なくなっていきました。
そんな私を見かねた友達が、自分の働いている職場を紹介してくれました。職場の環境が良かったおかげで、少しづつ笑えるようになっていきました。
バンドも新たに組むことができ、仕事もプライベートも順調に行きはじめ、お付き合いする人もできました。
依存体質がなかなか抜けず、人間関係でのトラブルはありましたが、少しずつ自信も持てるようになりました。
母の病気が発覚 – 予期せぬ試練 –
楽しい日々が増えてきたのも束の間、母に癌が見つかりました。かなりショックを受けましたが、母の代わりに家事に追われ、悲しんでばかりはいられませんでした。
友達から癌に効果があるサプリなどを紹介してもらったのですが、バイト代では払えないくらい高額なものでした。
結局、そのサプリはマルチ商法でした。世間を知らず当時は視野がかなり狭かったので、少しでも母の病状が良くなればいい…そのことしか考えていませんでした。
しかし、当時のマルチ商法はかなり強引に売る手法だったので、やり方に付いていけず、結局やめることにしました。マルチによって抱えた借金は100万ほどあったと思います。
ですが、母の抗がん剤が少し軽くなったり、再発もなかったので、辛かったけどあまり後悔はしていません。
結婚願望がなくなった矢先の結婚話 – 人生の変化 –
大変なこともありましたが、バンドのおかげで自分を見失わずにいられました。その頃、結婚のことなど全く考えていませんでした。
失恋の影響で「また同じようになるのが怖い」とどこかで思っていたんだと思います。考えていないというより、考えないようにしていたのかもしれません。
そんな中、メンバー間の意識の違いでバンドを解散することになったのです。
当時すでに32歳だった私は、バンドを辞めたことがキッカケとなり、その時お付き合いをしていた方との結婚を意識するようになりました。それが今の夫です。
結婚するまでの私は、とにかく「私は幸せになれない人間」「何をやってもダメ」「どうせ別れる」そんなことを思っていました。
当時はPMS症状も酷く、生理前はよく夫に当たっていました。喧嘩になるたびに「こんな人間とは別れていいよ」と言っていた記憶があります。
今はPMS症状も緩和し、生理前の過ごし方も自分なりにコントロールできるようになったので、ケンカすることもなくなりました。
結婚1年目の地獄…モラハラと育児ノイローゼ – 追い詰められた日々 –
結婚後、またもや問題が待ち構えていました。
結婚してからも私は働く気でいたのですが、すぐに妊娠がわかったため、働けない状況になってしまいました。
夫は、義父の借金と共に家業を継ぎました。親の借金を返済するために、夫は夜のアルバイトを始めました。
私の給料も見込めず生活費はわずか…。足りない分は私の失業保険で賄っていました。そんな中での出産。
私は初めての育児、金銭面での不安、夫も仕事の掛け持ちで疲れ切っていて、お互い余裕がなくなり、だんだんケンカが増えていきました。

「俺が働いて食わせてる」「俺の時間に合わせろ」と、優しかった夫は豹変してしまいました。
今の私なら、夫も疲れていたから…と思えますが、当時はそんな余裕はなく、ひたすら離婚のことを考えていました。
旦那への怒りが息子に向いてしまう日々 – 繰り返される負の連鎖 –
夫に対して不満が募っていった私は、吐き出すところがなく、長男にイライラをぶつけるようになっていきました。

泣いていても放置、怒鳴る、手を上げるようにもなっていきました。
そんな自分が嫌だと頭では分かってはいるものの、毎日のように怒っては謝ることの繰り返しでした。
「私は育児に向いてない…」「子供を産まなければよかった…」私は次第に追いつめられ、「子供と一緒に死んだ方がいいんじゃないか…」とまで考えるようになっていきました。
当時の私は、どうしようもなくなると死を考えてしまう癖がありました。
なぜ死を考えながらも、行動に移さなかったのか…理由を考えてみたのですが、やっぱり心のどこかで「いつか良くなるかもしれない」という望みが、わずかながらあったように思います。
今は、あのとき行動に移さなくて良かったと本当に思います。
長男の発達での悩み – 親としての苦悩 –
長男が成長するにつれて育児にも慣れたからか、少しづつ穏やかな生活になっていきました。
しかし、幼稚園に通い始めたことをきっかけに、長男の発達の遅れが気になり始めました。
入園式ではイスに座っていることができず、みんなと同じように出来ない、落ち着きがない。そんな息子の姿を目の当たりにしたのです。
周りのママに「あの落ち着きのない子は…」と言われたりもしました。他人の心のない言葉が心に突き刺さりました。
私は、不安になるたびに本やネットで調べまわり、安心できそうな記事を探していました。
友人や夫に相談しても「男の子はそんなもん」とどこか人ごとのような返事をされるので余計にイライラしてしまい、夫に相談するのはやめました。
人に相談できないことは本当に辛く、なにより孤独なんですよね…。
人生最大の悲しみ-わが子との別れ–
2人目を授かった私は、妊娠初期に切迫流産になりました。出血が止まらず入院することになったのですが、入院中も出血と張りが酷く、不安で不安で仕方ありませんでした。
症状はいっこうに良くならず、大きな病院に転院したのですが、着いてから2日目に陣痛、破水してしまったのです。それが22週と5日…。

次男は、奇跡的に自然分娩で生まれてきてくれました。自宅で搾乳した母乳を病院に届けて、顔を見て、一日一日の様子を聞き、次男のことに一喜一憂する…そんな日々が1ヶ月ほど続きました。
1ヶ月検診が終わった矢先に、息子は息を引き取りました。
もう私の心はぐちゃぐちゃで「人生の中でこんなにも悲しいことはない…この世に神様なんていない」そう思わずにはいられませんでした。
病院では、亡くなったママのためにカウンセラーの方が付き添ってくれるのですが、その時に痛烈に感じたことは「同じ経験をした人にしか辛さは分からない」ということでした。
カウンセラーの方も親身に寄り添ってくれたのですが、私の心は閉じたままで何も癒されないまま病院を後にしました。
それからの私は、精神不安定で些細な事にも敏感になり、周りの人の言葉が自分を責めているように感じ、いつも泣いていました。
スピリチュアルカウンセラーとの出会い – 救いを求めて –
夫の言葉すら責められていると感じていた私でしたが、それでも心の拠り所は、同じ悲しみを背負った家族だけでした。
精神状態は酷かったですが、まだ幼い長男がいたので、何とか保っていられたんだと思います。
そんな時に、心配してくれた友人がスピリチュアルカウンセラーの方を紹介してくれたのです。
私は、「とにかく誰かに聞いてもらいたい!」「次男がどう思っているのか知りたい!」藁をもすがる思いで連絡しました。
視える方だったので、この時は「亡くなった子どもの声を聞きたい」その一心だったと思います。
スピリチュアルカウンセラーさんとの出会いによって、心が救われ、どんどん気持ちも安定していったのです。
この経験から、私も「誰かの力になりたい」そう思うようになっていったのでした。
三男出産後に障害発覚 – 受け入れるということ –
次男が亡くなってから、もう一度子どもを授かりたいと思うようになっていきました。
けれど、想いとは裏腹に2回ほど流産を経験しました。「もう子供は諦めよう」と思った矢先に三男がお腹に来てくれました。
妊娠中は順調で、産後も問題なかったのですが、生後5ヶ月のときに先天性白内障が見つかりました。
驚きはしましたが、不思議と落ち込むことはなく「命があるから大丈夫!」と楽観的に受け入れることができました。
言語発達遅延で療育へ、資格を取り始める – 新たな挑戦 –
三男はかなり発語が遅く、3歳から療育に行き始めました。障害が見つかった時より、言語遅延の方がショックが大きかったです。
言葉が遅い=バカにされる、イジメられる、そういう未来を想像して不安だったのだと思います。
今は、障害を受け入れることができ、言葉に特化した療育に通っています。
私自身は、三男が幼稚園に行き始めてから、リンパマッサージの資格を取り、自宅で開業しました。
ですが、やっぱりここでも人付き合いが苦手・話すのが苦手な私が出てきてしまい、どんどん自信をなくしていきました。
「私はやっぱりダメな人間…」また、そんなことを思うようになっていきました。
長男のイジメ問題 – 繰り返される苦しみ –
次男、三男のことで塞ぎこんでいたり、やることが多くバタバタしていたことから、その頃は長男の発達のことは考えないようにしていました。
そんな中、長男が小学校に上がり2ヶ月足らずで上級生からの嫌がらせを受けていたことがわかりました。
そこからは、長男のイジメ問題を解決すべく動くようになったのですが、上級生の次は同級生、それからまた違う上級生…など毎年のように嫌がらせ問題は続きました。
暴言、突き飛ばし、鞄に唾はき、脅し…。嫌がらせの理由は特になく、「たまたまそこにいたから」でした。
あまりの理不尽さに、とても腹が立ち、息子に少しでも嫌な態度を見せてくる子がいたら「あの子と遊ぶのやめた方がいい」と、口出しをするようになっていきました。
私は、威圧的な態度をとる人や、弱いものイジメが異常に嫌いでした。今思うと、周りの子たちに、幼少期の父を重ねて見ていたのだと思います。
また、いじめられても何も言い返さない長男に、母や私を重ねて見ていたと思います。
長男との関係 – 悪循環からの脱却 –

長男に対しても、イライラしだした私は「そんな態度だから友達から嫌がらせを受けるんだ」「そんなんだから友達が出来ない」と思うようにもなりました。
実際に長男にも酷い言葉を言ってしまうようになっていきました。次第に長男は、私の顔色を伺うようになっていきました。
長男にイライラを抑えられない日々でしたが、「このままではいけない」と、強く思っていました。
本やネット、占い、育児相談など、子育てについて色々調べたりしていました。
調べていく中で、叱るより褒めるのが良いと知り、実際に褒めてみるのですが、今まで褒めることをしてこなかった私には、息子の何を褒めたらいいのかがわかりませんでした。
私は、「やり方を知っていても出来ない」「みんなが出来ていることが出来ない」これが一番苦しかったかもしれません。
この時の私は、自分の問題ではなく「子供の問題」だと思っていたので、息子たちを変えることばかり考えていたように思います。
もしかしたら変われるかもしれない – 一筋の光 –
本気で変わりたいと思っているけど、どこかで「変わるわけない」そんな思いを抱えていました。
そんなとき、偶然、心の土台構築 実践プログラムに出会ったのです。
これが、長年の生きづらさを手放すきっかけとなった、カウンセラーであり、ポポラスの代表の直子さんとの出会いでした。
直子さんの話を聞いているうちに「これって私だ!!」と思ったんです。
何をやってもダメ…子育てが辛い…そう思い込んで生きてきた私に、暗闇の中に一筋の光が差したように感じました。
「今度こそ変われるかもしれない」そう思いました。
またやってきた不安 – 変わることへの恐れ –
すぐに私は、体験カウンセリングに申し込みました。「絶対変わりたい!プログラムを受けたい!」そう思い、受講を決めました。
しかし、少し時間が経ったら、また不安が襲ってきたんです。
「今まで高いお金を出してきたけど変わらなかったでしょ?」「また変わらなかったらどうするの?」と、私の中で激しい葛藤が始まりました。
幼少期から長いこと刷り込まれてきた
「お金のブロック」
「変えることができなかった幾つもの過去」
断るには十分な材料でした。
断ることが苦手な私でしたが、それ以上にお金を払うことへの不安や恐怖の方が大きくなり、受講をやめようと思いました。
一生のことを考えたら今のままは嫌だった – 決意 –
受講を諦めることを伝えたとき、直子さんに「このままずっと、苦しいままでいいですか?」と言われたんです。
直子さんから言われたこの言葉が、私の頭の中でずっと駆け巡っていました。
「一生上手く行かないまま、苦しいまま過ごしていくの?」何回も何回も自問自答しました。
それだけお金を払うことに対してのブロックがあったからなんですよね。
「それは絶対嫌!!」そう思ったとき、プログラムに挑戦する決意が固まりました。
覚悟を決めてからは「絶対に変わる!!」と、不安は強い意志へと変わりました。
初めて自分に優しくしようと思えた日 – 自己受容への第一歩 –

プログラムを受講し、私は驚くほどに変わっていきました。
過去を振り返る中で、当時感じていた様々な感情が次々に出てきて、私の中で「我慢することが当たり前になっていたこと」を改めて知ることが出来ました。
自分史を書いていくうちに、涙が溢れてくるんです。「本当によく頑張ってきたね」って。
誰からも言われたことのない言葉、私がもっとも言われたかった言葉、その言葉が自然と出てきたんです。
「生きていてくれてありがとう」
「これまで頑張ってきた自分を褒めてあげよう」
「これからはたくさん優しくしよう」
46年間生きてきて、はじめて思うことが出来ました。
それでもプログラムが始まった最初の頃は、やっぱり不安の方が大きく、スムーズに進んでいったわけではありません。なかなか変われない自分に焦ることも多くありました。
自分の思考のクセや見たくない自分も出てきてしまうこともあり、物凄い嫌悪感に襲われることもありました。
スムーズに行っている時は自分に少し自信がもてたりしましたが、上手く行かないときは、やっぱり自分はダメだ…と落ち込み、頑張っているのに上手く行かないことに立ち直れずにいたこともありました。

そんな状態だった私が、無事にプログラムを終えることができ、プログラム修了後は180度と言っていいほど人生観が変われたのは
落ち込むたびに寄り添い、私以上に私を信じてくれた、カウンセラーの直子さんがいたからです。
自分と向き合うことは簡単ではないし、苦しいこともたくさんあります。今も思うことですが、一人で乗り越えることは無理だったと思います。
自分に優しくしていくうちに子育てにも影響 – 変化の連鎖 –

自分に対して優しくなっていくと同時に、少しづつですが、子どもへの声掛けが変わっていることに気づいたんです。確実に怒り口調ではなくなっていました。
子どもたちに「ダメな自分を見せるなんてできない」そう思っていたのに、自然にダメなところも見せられるようになっていたのです。
そんな緩んだ私を見て、子どもたちの心も緩んでいく様子がわかりました。
これまで「そんな考えじゃダメだ!」と言っていたのが、今では「そんな考えもあるよね!」に変わっています。
子どもたちの意見や考えを尊重できるようになってからは、みるみるうちに子どもたちとの関係が良くなっていきました。
子どもに感情的に怒ることはなくなり、私の顔色を伺うだけだった息子も、自分が思ったことは正直に話してくれるようになり、
私が当初、思い描いていた“自然と笑いあえる家族”にもなりました。
最後にあなたに伝えたいこと

プログラムが終了してから数年経ちますが、現在の我が家の状況は、親子関係・夫婦関係は、どんどん良い方向に向かっています。
私が変わったことで、実際に周りも変わっていってることを実感しています。
子ども達との関係、夫婦関係、友人関係、全てにおいて、性格が変わったというより見る視点が変わったのだと思います。
自分に自信がない私でしたが、根拠のない自信を持てるようになり色んなことにチャレンジ出来るようにもなれています。
「変わりたいけど、どうせ変われない…」それが、ただの思い込みだとわかってからは、何に対しても“大丈夫”と思えるようになりました。
そのおかげで、心理カウンセラーにも挑戦することができました。
現在は、かつての私と同じように、幼少期の体験によってトラウマを抱えている人、生きづらさを感じている人が、少しでも本当の笑顔を取り戻せるように、そのお手伝いが出来たらと思っています。
正直言うと、もっと早くに出会いたかった思いはありますが、でもやっぱり、これが私のタイミングだったんだと、今は思っています。
ですので、あなたが「変わりたい!」「こんな苦しみから抜け出したい!」今、少しでもそんな思いがあるのであれば、今があなたのタイミングだと思います。
「変わりたい!」あなたのその想いが、過去も未来も変え、“今”を変えることができるのです。
長いプロフィールをお読みくださり、ありがとうございました。
私の経験が、あなたの人生を変える一歩を踏み出すきっかけになれたら嬉しいです。
あなたとの出会いを心よりお待ちしております。

カウンセリングルーム ポポラス認定 心理カウンセラー平山妙子